Frank-Cachet E-Book

“Frank Yoshida”の原点がここにある。コミュニティーサイト"E-Amigo"で更に繋がる文芸の輪。


「ハグル」(112)〜エピローグ〜

 兵庫県芦屋市のマンション。
 阪急神戸線芦屋川駅から、南に向かって徒歩10分のところである。
 午後10時を回り、静けさが尚一層、高級住宅街を引き立たせる。
 犬の遠吠えが、空襲警報のように辺りにこだました。
 非常階段に男の足音が響く。
 コツ、コツ、コツ、コツ。
 5階に到着したあと、一番手前の504号室で足音が止まった。
 ドア右手に掲げられた表札。

―利根岡奈美好、麻希子―

 玄関の呼び鈴が2回、焦り気味に押された。
「はーい!」
 室内から麻希子の声。
「あなた?」
 チェーンが外され、ドアが開いた。
「早かったのね。寒かっ―」
 といったところで、麻希子は思いっきり口を塞がれた。
 すぐさまドアがロックされ、奥の応接室へと押し込まれる。
 眼を剥きながら男を見る。
 言葉にならない驚愕が、彼女の口の中で暴れまわった。
「騒ぐんじゃないぞ、いいな!」
 数秒して、麻希子が首を縦に振った。
 麻希子の口元がゆっくりと解放された。
「た、征。征でしょ!? テレビで見たわ」
 15年の月日が、お互いに齢を感じさせている。
「ごめん、驚かせちゃって」
 商は麻希子を抱き寄せ、力ずくで唇を奪った。
 温かい空気が商の身体に染み渡る。
 強張った麻希子の身体が、いつの間に解きほぐされていく。そして―。
「ごめんなさい。私―」
「いいよ。植物人間になったんだからな」
 麻希子が黙った。
「もうすぐ、主人が帰ってくるわ」
 商が首を横に振った。
「帰ってこないよ。一生…」
「え? どういうこと?」
「殺した。そう、ご主人を殺したんだよ」
「え!? ど、どうして?」
 麻希子の眼が恐怖となって、商に跳ね返ってきた。
 商は立ち上がり、テラスの外を眺めた。
「君を奪ったからさ」
「それだけなの?」
「それだけ、って。僕が一番奪われたくなかったものだ、君は」
 麻希子が商の一挙手一投足に眼を遣る。
 恐ろしいぐらい二人に一体感が生まれる。
「麻希ちゃん。実は利根岡奈美好は、僕の中学の時の同級生だった。知り合った当初はお互い仲良く、一緒によく勉強していた。彼は頭が良く、いつもクラスで1番だった。ところがある日を境に、利根岡は僕と勉強するのを避け始めた。僕は正直、彼には足手まといだと思っていたので、あまり気にしなかったけど、その年の2学期の期末試験で、全科目彼を抜いてクラスで1番になってしまった。利根岡の悔しさは、尋常ではなかった。それから1週間が経ったあたりから、無言電話が何度もかかってくるようになった。夜の9時あたりから、真夜中の3時ぐらいまで、何十回、何百回と。病弱な母は気が滅入り、心配になった父は警察にも相談したが、無言電話が止まることはなかった。仕方なく電話番号を変えた翌日、利根岡が僕の所にやってきてこう言った。“電話番号を教えてくれる?”―僕はピンッと来た」
 黙って聞いていた麻希子が大きく首を振った。
「まさか、主人が―」
「麻希ちゃん、それからひと月後に、母が亡くなった。…そして、彼の結婚相手が君だったとは」
「…征。でも殺さなくても…」
「バカだろう、僕は」
「……」
「君を奪われたことは、命をとられたのも同然だ。もう覚悟はできている」
「征…」
「大丈夫」

「商社マンとして、インテリジェンサーとして生きたあなた。そして日本国総理となってトップにまで上りつめたあなた。そんなあなたが、たった一人の私の為に全てを捨てる。どうして?」
「麻希子…」
「何?」
「いまでも君を愛しているからだ」
「でも罪を犯してまで?」
 商が大きく深呼吸した。
「愛にハグルは無い」
「ハグルって?」
「愛に値切り交渉はないよ」
「それって…」
「お金では買えないものに交渉はない」
「征」
 再び犬の遠吠えが聞こえた時、麻希子のマンションから、二人の姿は消えていた。sunset-photo-ss.jpg

 数日後、日本海に浮かぶ一艘のボート。
 商と麻希子が手と手を取り合い、天空を見上げている。
 静かに息を引き取った二人の表情には、微かな笑みが浮かんでいる。
 花武庫待子からの手紙がふわふわとボートから飛び出した。
 海水で滲んだ文字が薄っすらと消えていく。

―商征さんへ
 麻希子さんは生きている。今でもあなたを愛している。
 あなたはそれ以上に、麻希子さんを愛している。
 だからこれからも、愛してあげて。
 連絡先:****
 待子
 追伸:愛に生きた征。ありがとう!

(終わり)

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  1. 2007/03/28(水) 18:16:49|
  2. 「ハグル」(連載)

「ハグル」(111)〜利根岡殺害〜

グリーンピースの入った炒り卵を少し口に入れ、味噌汁で流し込む。食欲が消え去っていくのが商にも分かった。
 配膳のトレーを返却したあと、商は病院の屋上に上がった。
 地上12階。目の前に阪急梅田駅が見える。
 右ポケットには待子からの手紙が入っている。
 屋上のボイラーい夕陽が差し始め、商の顔にエキゾチックなコントラストを描いた。
 暫くして警備員が見回りにきた。
「風邪ひきますよ」
「すぐ降ります。夕陽がきれいなもので」
「じゃ、あと30分ほどでドアを閉めにきますから」
 商は静かに頷いた。

 6時30分、ジャスト。看護婦が商の病棟にやってきた。
「あれ!? 商さんが―」
 ベッドはもぬけの空で、不審に思った看護婦は緊急連絡を入れ、棟内全体を探し回った。
 そして、その30分後。
「婦長、見当たりません」
「まさか、あの人―」
 屋上で警備員が見たのを最後に商は消えた。
 そして病院の旧館と新館の間の東屋に.....。

            ◆

 その翌日、大手家電メーカーのM電気の守衛室に商の姿があった。
「商征ですが、総合研究所勤務の利根岡奈美好さんをお願いします」
 守衛は何の疑いもなく、利根岡に取り次いだ。
「上級研究員の利根岡さんですか? 商さんていう方がお越しですけど」
「え? ここに? 本当? 懐かしいなー」
 伝言を受け取った利根岡は、躊躇うことなく休憩室まで珍客を案内するよう、電話越しに応答した。
 研究発表のレポートを書いていた右手が、いつの間にか震えている。驚きか、嬉しさか、緊張感なのか、説明のつかない電気が身体中に流れるのを感じた。
 地元大阪の国立大学でマスターを取得した後、伊丹市にある大手家電メーカーのM電気に入社。利根岡が所属する総合研究所は、マスターやドクターの学位を既得するエリート集団で、毎日コツコツと研究に励む一種独特の世界である。さして仕事に違和感は感じていなかったが、ここ数ヶ月ひきこもり状態になっている自分に、少し嫌気が差していた。
 自分専用のコンピューターの電源を落とし、同じ建物の2階にある来客専用の休憩室に向かった。普通の足取りならば5分で着ける場所であるが、懐かしさがそうさせるのか、利根岡の歩調は勢いを増していた。
 いつもなら居残りの社員が吸う煙草で煙だらけの休憩室だが、この日は社員早帰りの水曜日とあって、午後9時を回った工場は、驚くばかりに静まり返っている。 横一列に5つ並んだ自販機の上の蛍光灯だけがポツンと点っているだけで、守衛の姿はまだ見えなかった。
―あいつ、トイレにでも寄っているのかな?―
 利根岡は温かみの無いスチールの長いすに腰掛けた。
 5分経った。…人の気配が無い。
 10分が経った。…背筋に寒気を感じる。
 暫らくして、鉄製のバールが鋭く地面に落ちる音が聞こえた。一階の玄関あたりである。
「誰か、そこに―」と言いかけて、利根岡は勇み足で金属音が聞こえた玄関に向かった。
 自分の足音だけが、コツコツと廊下に響く。
 眼の前に正面玄関が見えた。守衛の姿が無い。そして来客の姿も。
 受付にみたてたスチール製の机に、恐る恐る、一歩一歩近づく。
 守衛がいつも座っている椅子の背後に、赤いものが。
 大きな血痕。一つ、二つ、そして―。
 背後で人影を感じたその瞬間…利根岡は鈍い大きな音と共に、廊下に倒れた。頭脳に集積された画像が全てシャットダウンするように、眼前から全てが消え去った。
 全て…。

 商の残像を最後に利根岡は息を引き取った。
 殺害された利根岡は、不思議なぐらいに平穏な顔で50歳の生涯を終えた。
 傍らに置かれた一枚の写真。
 卒業アルバムを引きちぎった一片であった。

―K中学校2年8組クラス写真

 正面左手、最前列。商と利根岡が満面の笑みを浮かべて隣同士座っている。
 利根岡の顔に書かれた赤の×印。嫌悪感を象徴するかのように、顔が擦り切れるぐらい、何十にも擦られていた。

(つづく)

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  1. 2007/03/27(火) 19:34:59|
  2. 「ハグル」(連載)

「ハグル」(110)〜人生の岐路〜

 昏睡状態から目覚めた日の翌日、商はプロムナードと呼ばれる病院内の散策路に出ることを許可された。
 太陽が眩しく照りつける昼下がり、商の車椅子を押す待子が、木陰に入ったところで呟いた。
「ねえ」
 待子の問いかけを無視し、商が訊いた。
「俺たち結婚していたのか?」
 待子が俯いた。
「どうなんだ」
 車椅子を東屋のベンチに誘導し、木製の椅子に腰掛ける待子。
 大きく深呼吸し、言葉を選んだ。
「別の人と」
 一拍おいて、商が応えた。
「そうか」
 老夫婦が黙って二人にお辞儀をし、眼の前を通り過ぎて行く。
「ごめんね」
「……」
 商が左右の車輪を思いっきり握り、前方へ走らした。
「待って!」
「昏睡状態の男に、15年も添い遂げる女なんてこの世にはいないよな」
「―そうじゃないの」
 商が車椅子を停めた。
「あなたには奥さんがいたの。それもとっても若い」
「君じゃないのか?」
 記憶がはっきりしない商が、焦点の定まらない眼をした。
「麻希子さん。憶えてる?」
「麻希子…麻希子…」と何度も口ずさむうちに、商が頭を抱え込んだ。
「やめましょ」
 商は頭を掻きながら、「独りじゃなかったんだ」と神経質な口調で応答した。
 先程の老夫婦が、5メートルほど先のベンチに腰を降ろし、水筒に入れ
たお茶を飲み始めた。そのゆっくりとした仕草は、商には一縷の安らぎとなった。
「あんな夫婦になれたらいいわね」
「ああ」
 大空を見上げ、商がポツンと訊いた。
「その麻希子って子、今はどうしてるの?」
 待子が大きく商から眼を逸らした。
 慮るように商が優しい眼で待子を見る。が、その表情を見て待子は余計に言い出しづらくなった。
「大丈夫だ。正直に言って欲しい」
「…別の人と結婚しちゃった」
「そうか。じゃあ、俺は独りっていうわけだ」
 予期せぬ突風が東屋に吹きつけ、商と待子は眼を閉じた。
 待子が腰を上げた。
「もうそろそろ行かなくっちゃ」
「ごめん。大丈夫だよ、あとは独りで病棟に戻れるから」
「これ、読んでおいて」
 待子が一通の封筒を渡した。
 表には達筆な字で“商さんへ”と記されている。
「今は開けないでね。辛くなるから」
「了解」
 待子の背中を見送りながら、ゆっくりと記憶を辿る商。
 永久の別れのように聞こえた待子の挨拶が、商の心臓を抉り始めた。

 病棟に戻った商は、待子からの封筒を手にしたまま眠り込んでいた。
 夕食の配膳に眼が覚め、徐に封筒を開ける。
 1葉の便箋と箇条書きが、待子の全てを語っていた。
 数行のメッセージを読み、すぐさま天井を見上げる商。
 同封された1枚の写真が涙腺を緩ませ、過去の記憶を蘇らせた。

(つづく)

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  1. 2007/03/27(火) 07:21:28|
  2. 「ハグル」(連載)
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