Frank-Cachet E-Book

公募出稿作品は『商社マン綾野高次』(長編ミステリー)『ハグル』(長編スパイ小説)『税金兵衛』(短編)です。当ブログにて連載中の小説はフィクションであり、登場する人物・団体名等は全て架空のものです〜


長編スパイ小説「ハグル」再連載中!(1)〜(28)

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【出稿校正前原稿】


ある晩、大手電機メーカー総合研究所のエリート研究員が何者かによって殺害される。…その15年前、社マンとしてアフリカに駐在していたひとりの男が、ひょんなことから諜報員に転身し、国家間の陰謀に巻き込まれていく。その男、征。縺れた糸を解き明かすべく、語学学校の女講師に近づく。心に傷を負ったは、いつしか家庭教師先の女子高生麻希子に癒しを求め、禁断の恋へと嵌っていく。忍び寄るシンガポールの黒幕M、政府の野望。…15年の月日が意味するものは。夢か希望か信念か…の心が大きく揺れる…。

摘要) 最終原稿のプロットは、大幅に変更しています。

▼ 登場人物-----------------------------------------------------------------
征【あきないただし】ティッカーコーポレーション代表。
◆ 花武庫待子【はなむこまちこ】フランキスタ外語学院講師。
◇ 花武庫甚代【はなむこいたよ】待子の母。
◆ 熊野川九児【くまのがわきゅうじ】待子の生徒で大学2回生。別名キース。
◇ 最上元杏子【もがみもときょうこ】の家庭教師先の母。保険外交員。
◆ 最上元麻希子【もがみもとまきこ】の家庭教師先の私立女子高1年生。
◇ 利根岡奈美好【とねおかなみよし】大手家電メーカーのエリート研究員。
◆ 四万十川富士子【しまんとがわふじこ】フランキスタ外語学院人事部員。
◇ マイケルチャン【まいけるちゃん】待子の米国留学時のクラスメート。
◆ 阿武隈玲子【あぶくまれいこ】麻希子のバドミントンクラブの仲間。
◇ 閑散寂【かんさんじゃく】ネットカフェのマスター。通称“カンさん”。
◆ 犀川若諫【さいかわわかいさ】フランキスタ外語学院、教務課主任。
◇ 糸魚川策次【いといがわさくじ】マレーシアN社工場長、36歳。
◆ 巻花あずさ【まきはなあずさ】亜東国内航空のキャビンアテンダント。
◇ 影権握【えいけんにぎる】日本国総理大臣。
◆ 道街替太【みちまちがえた】警察庁長官。
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(1)〜プロローグ〜


「え? ここに? 本当? 懐かしいなー」
 正面玄関の守衛から、自分宛の来客との伝言を受け取った利根岡は、躊うことなく休憩室まで珍客を案内するよう、電話越しに応答した。
 研究発表のレポートを書いていた右手が、いつの間にか震えている。驚きか、嬉しさか、緊張感なのか、説明のつかない電気が身体中に流れるのを感じた。
 地元大阪の国立大学でマスターを取得した後、伊丹市にある大手家電メーカーのM電気に入社。利根岡が所属する総合研究所は、マスターやドクターの学位を既得するエリート集団で、毎日コツコツと研究に励む一種独特の世界である。さして仕事に違和感は感じていなかったが、ここ数ヶ月ひきこもり状態になっている自分に、少し嫌気が差していた。
 自分専用のコンピューターの電源を落とし、同じ建物の2階にある来客専用の休憩室に向かった。普通の足取りならば5分で着ける場所であるが、懐かしさがそうさせるのか、利根岡の歩調は勢いを増していた。
 いつもなら居残りの社員が吸う煙草で煙だらけの休憩室だが、この日は社員早帰りの水曜日とあって、午後9時を回った工場は、驚くばかりに静まり返っている。 横一列に5つ並んだ自販機の上の蛍光灯だけがポツンと点っているだけで、守衛の姿はまだ見えなかった。
―トイレにでも寄っているのかな?―
 利根岡は温かみの無いスチールの長いすに腰掛けた。
 5分経った。…人の気配が無い。
 10分が経った。…背筋に寒気を感じる。
 暫らくして、鉄製のバールが鋭く地面に落ちる音が聞こえた。一階の玄関あたりである。
「誰か、そこに―」と言いかけて、利根岡は勇み足で金属音が聞こえた玄関に向かった。
 自分の足音だけが、コツコツと廊下に響く。
 眼の前に正面玄関が見えた。守衛の姿が無い。そして来客の姿も。
 受付にみたてたスチール製の机に、恐る恐る、一歩一歩近づく。
 守衛がいつも座っている椅子の背後に、赤いものが。
 大きな血痕。一つ、二つ、そして―。
 背後で人影を感じたその瞬間…利根岡は鈍い大きな音と共に、廊下に倒れた。頭脳に集積された画像が全てシャットダウンするように、眼前から全てが消え去った。
 全て…。

(2)〜15年前〜


 15年前の6月13日。気象庁から梅雨入り宣言が出されたその日、保険外交員の最上元杏子(もがみもときょうこ)は使い古したセダンのアクセルを吹かし、塚口の自宅へと急いでいた。
―あら!もう6時じゃない!―
 ダッシュボードの中の時計を見て、思わず独り言を発した。ミッションのギアチェンジが、益々荒くなる。
 外交員になって早5年になるが、売上はいつも中の下。本人も認める通り、真剣に仕事をしているわけではなかった。木造平屋の一軒家に、家族4人で暮らしている。夫は地元の教育委員長、長男はフリーター、長女は市内の私立女子高の1年生である。
 長女の麻希子とはよく口喧嘩をするが、理由は至極単純で、似た者同士だからである。「もういい加減にしろ!」と仲裁に入るのはいつも夫で、長男は二人の喧嘩をてんで気にしていない。
 国道から少し入った住宅街の一角で車を止め、自宅前まで数分歩いた。自宅に駐車場がないからと、他人の家の前に平気で車を停める習性は、車の購入以来続いている。
「麻希子、帰ってるの? 玄関、開けっ放しでしょ!」
 半開きの引き戸に頭だけ突っ込み、恐る恐る中を窺った。
「麻希子―。いるの?」
「(…もう、大きな声出さないでよ。トイレよ!)」
「家に入ったら、ちゃんと鍵を掛けておかなくっちゃ。物騒だよ」
 暫くして、スカートの裾を上げたまま麻希子がトイレから出てきた。杏子に顔を合わせることも無く、足速に2回の自室に上がった。
「ねえ。今日から英語の先生が来るのよ。ちゃんとしときなさいよ!」
 10分ほどして麻希子がTシャツにジーンズ姿で降りてきた。
「ねえ、母さん。私の部屋には絶対に入れないでよ。…どうして中年の男性なんかに家庭教師を頼んだの。変態だったらどうするの!」
「麻希子!何てこと言うの!あんたは―」
 そう言いかけて、杏子は応接間を片付け始めた。
 落ち着きなさそうに、麻希子が言った。
「もうすぐ6時半ね。母さん、先生が来ても一緒にいといてね。イヤラシそうな人だったら、即刻お断りよ」
「あんたは、こっちに座りなさい」
 杏子は入口から奥のソファーを指差した。
 暫くしてドッドッドッドーという、Vツインエンジンのアメリカンバイク特有の音が遠くから聞こえてきた。杏子は小さく頷いた。
 エンジン音が途切れ、玄関のドアのブザーが鳴った。
「すみません!」
「母さん出てよ!」
「はい、はい。―先生ですか?」
 ガラガラと音が鳴って、口ひげを生やした30代半ばの男性が現れた。
「あ、最上元さん。こんにちわ!」
「先生、いらっしゃい!…ねえ、麻希子。先生よ」
 麻希子は恐々玄関に首だけ出した。
「こ、こんにちは―」
 男性を見た瞬間、麻希子は顔を赤らめた。

(3)〜征〜


「こんにちは!」
 杏子が脱いだ靴を揃えた。
「先生、こちらへどうぞ」
「あ、すみません」
 入り口正面のすりガラスの応接間に入り、肘掛の無い長いすに座った。
 細面で掘り深い顔、口髭、アメリカンバイク…これらの全てが、麻希子の言葉の回路を短絡させたかのようであった。
「先生、この子、英語がからっきし駄目なんです。宜しくお願いします」
「お母さん!」
 麻希子は唇を尖らせ、両頬を膨らませた。
「最上元さん。今日は勉強より、知り合いになるということで、スモールトークでいいですよ」
 杏子と麻希子は顔を合わせ、キョトンとした。
「スモール…って何ですか?」
「世間話ですよ。雑談です」
「先生、厳しく教えて下さいね。この子、前の家庭教師のときは先生を甞めちゃって、結局、愛想を付かされて、1ヶ月も持たなかったんです」
 麻希子はえくぼの見える可愛い笑顔を見せた。
「大丈夫です。ね?」
 男は親指を立てて、麻希子に合図を送った。
 杏子が応接間を出ると、男は自己紹介を始めた。
「僕の名前は、征(あきないただし)。元社マンだよ。仕事で世界中を回っていたから、考え方は少し変わっているけど、元来、人間は好きだから、きっといい話し相手になれると思うけど」
 は右手を差し出した。
 麻希子は断る理由も無く、軽く握手した。
「そんなに緊張しなくていいよ。“変なおじさん”じゃないから」
 ニコッとして、麻希子が訊いた。
「あのー。英語って、英語ですよね?」
「面白いね、麻希ちゃん。…あ、ゴメン。麻希ちゃんって呼んでもいい?」
「はい」
「そう、英語を教えるんだよ」
「私、文法が苦手で―」と言いかけた時、杏子がコーヒーを持って応接間に入ってきた。
 ゆっくりとコーヒーを出す姿を見て、麻希子が「もう、お母さん、私がやるから。早く出て行って!」と急かした。杏子は眼を丸くして、に一礼して、台所に行った。
「麻希ちゃん。先ほどの話だけど、文法なんて気にしなくていいよ。英語は気持ちで喋るもんだよ」
「…」
「要は、文章を作らなくても、言葉を発していけば、会話になるんだ」
 麻希子は食い入るように、の眼を見た。
 その後、は麻希子に、社マンとして海外を飛び回っていた頃の話や、危険な眼にあったことなど30分近く喋り、次回の授業は仕事の都合で3週間後になる旨告げ、母親の杏子に挨拶をし、最上元家を出た。
「麻希子、あんたコーヒー飲まなかったの?」
「お母さん、お母さん。毎週1回、、、2回でもいいわよ。頑張って、勉強する。英語」
 輝いている麻希子の眼を見て、杏子はの隠された魅力を思い知った。

(4)〜棲み処〜


 が住むマンションは、閑静な住宅街にある。
 段々畑上にスロープに沿って建つこのマンションは、地中海のリゾート地を連想させるぐらいに、眩い白色を放っている。
 ほんの10分ほど歩けば、動物園と遊園地が一緒になった、休日の家族が楽しめるファミリーランドがある。ここの遊園地の観覧車に乗ったカップルは必ず別れる、といわれている。実際、もその例外ではなかった。
 最上元家でのバイトを終えたは、20分ほどかけて自宅に戻った。バックパックに入ったコンビニ弁当を気にしながら、ヘルメットを脱ぎ、5階の505号室まで一気に階段を駆け上がった。
 玄関の扉を開け、蛍光灯を点ける。独り暮らしの切なさが、否応なしにすきま風となって、の身体をすり抜けた。
 据え置き電話の留守電のボタンが点滅している。ちらっと壁掛け時計を見る。午後8時過ぎ。徐に留守録のボタンを押す。
 ピーという発信音の後、快活な女性の声が聞こえてきた。

―あ、タッド? こんにちわ。この前はセミナー、とても楽しかったです。お役に立てました? タッドが英語をぺらぺら喋るので、私、緊張しちゃって、何を言ったのか今でも憶えてないんです。でも、いい経験になりました。今度、ドメに乗るときは必ず連絡下さいね。チケットを特別手配したげるから。…ありがとうございました。失礼します。

 タッドとは、征の英語のニックネームである。大学時代から使っているあだ名で、親戚の人間以外へは全てこのニックネームで通している。ドメとはドメスティックの略称で、飛行機の国内線のことだ。
 3日前の日曜日、近くの公民館で、“タッド、英語を語る”と題した怪しいセミナーを開催し、50名近くの知人を招待した。知り合いのキャビンアテンダントも5名出席し、留守電を残した彼女は、の隣に座ってMCを務めてくれた女性である。美人の彼女は、のセミナーでも特に目立っていた。聴衆の眼を引くためのの取り計らいであることは、誰の眼にも明らかだった。
 台所のテーブルにコンビ弁当を置き、椅子に腰掛けようとしたとき、玄関で何かを見たのを思い出した。
(…白いもの。確か、白いものが見えたな…)
 玄関のドアの新聞受けを覗き込んだ。確かに、白いものが入っていた。
 鉄製の金具を外し、中から飛び出した紙切れ一枚を取り上げた。手書きの文字である。

―マンションの住人の方々へ。
 また、5階で泥棒が出ました。ベランダから進入した模様で、警察の方に調べてもらっています。犯人はわかっていません。皆さん、戸締りには十分注意してください。

                          管理人より―

 はA5サイズのメモ用紙を思いっきり握り締め、くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てた。

(5)〜出会い〜


さん、書留です!」
 寝ぼけ眼でベッドに備え付けの置時計を見る。午前9時過ぎ。
さん!」
 ドアベルが追い討ちをかけるように、数回鳴った。
「―ったく、早いんだよ。まだ9時だろう」
 昨晩のナイトキャップが祟ったのか、ベッドから立ち上がってすぐ、二日酔い丸出しの頭痛がを襲った。不機嫌を絵に描いたような顔で、ドア越しに立つ郵便配達人と対面した。
「はい」
「すみません。ここにサインを頂けますか?」
 到底“”とは読めそうもない、いい加減なサインをした。郵便局員も事務的に「どうも」というと、足早に立ち去った。
 手紙の差出人を見て、は大きく眼を見開いた。慌てて封書をちぎり、中身をみる。
―あれー、今日かよ―
 手紙には、時間は午後6時半、場所は生け花教室の前と記され、女性の写真が一枚同封されていた。高校の体育祭の時のスナップショットのようだ。
 スペイン語のことわざを思い出す。No hay quince años feos.(ノー・アイ・キンセ・アーニョス・フェオス「15歳はみんな可愛い」)
 現在の彼女は、それ以来10年経っているらしいが、もしかしたらかなり気がきつくなっているかもしれない。目鼻立ちがはっきりしている。
 封書の一番下に、“代金はこの前の金額でお願いします”と、便箋に型が残るほどの筆圧で書いてあった。
 は用足しを済ませた後、冷蔵庫から賞味期限ぎりぎりの牛乳パックを取り出し、飲み干した。
 新聞受けから朝刊を取り出し、ベッドに戻った。枕を背凭れにしてトップ記事を読み始めたが、統計が大半を占める経済記事に眠気を催し、また眠りに陥った…。
 市の広報車のスピーカー音で眼を覚ましたときは、既に午後5時を回っていた。
「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。シャワーだ、シャワー!」
 ものの5分でシャワーを済ませ、ノンシュガーのホットコヒーで食パンの端切れを腹に流し込み、スーツ姿に着替えマンションを出た。
 徒歩8分で最寄の私鉄の駅に着く。同封してあったもう一通の封書が内ポケットに入っているのを確認して、大阪梅田行きの急行列車に乗った。
(…切り出しは、そうだな…)そう考えて腕を組む。
(…うーん…)突然思考回路が止まって、また寝てしまった。
「終点、梅田駅です。お忘れ物の無いよう、左側の出口からお降り下さい」
 夢遊病者の如く言われるがままに降車したは、かなり空腹を感じながら、目的地の生け花教室に向かった。
 6時23分。生け花教室すぐ隣の本屋で立ち読みする振りをして、写真の女性を待つ。
 6時25分…26分…27分…。現われない。
 あれ?っと思った瞬間、黒のカーディガンを来た女性が右隣に立っているのに気付いた。
 ふと振り向くと、写真の面影を残した女性がファッション雑誌をペラペラと捲っていた。

(6)〜性(さが)〜


(…睫毛の長い、瞳の大きい女性だな…)
 これがの第一印象である。
 考える余裕も無く、はミッションを実行に移した。
「あのー、すみません。花武庫待子(はなむこまちこ)さんですか?」
「え?」
 女性は猜疑心の固まりのような眼でを見た。
征(あきないただし)といいます」
「…」
「決して怪しいものじゃありません。ある人から、あなたに手紙を渡すようにと、依頼を受けたんです」
 は内ポケットから封書を取り出し、女性に見せた。
 表面と裏面をしっかり見て、眉を顰めた。
「やーだ、しつこいわね、彼」
「え?」
「あなたが彼とどんな関係か知りませんけど、破って捨てておいて下さい」
「お願いします。受け取ってください。仕事なんです」
 はしまった、と思った。
「あなたにお金を払ってまで…へえー」
 女は悪戯っぽい眼での顔を覗き込んだ。
「悪いけど受け取れないわ。私、ねちっこい男性は嫌いなの」
 は手紙の依頼人である男性を詳しく知っている訳ではなかったが、何故かその男性に哀れみを感じ、正直に言葉を発してしまった。
「ねちっこいってどういうことですか? 彼だって真剣だと思いますよ。彼の気持ちだけでも受け取れませんか?」
 の語調が強くなった。
「嫌なら嫌って、はっきりと言ってあげたらどうですか。有耶無耶にするなんて、可哀想ですよ、彼が」
「…」
「確かに、金を払って女性に手紙を手渡して欲しいなんて、男として情けないと思いますけど…でも…」
「…私、生け花教室があるので、失礼します」
「駄目ですか? 受け取ってもらえませんか?」
「警察を呼びますよ!」
 女は本屋の店員の所に行きかけた。
「じゃあ、気が変わったら、私に電話を下さい」
 は慌てて、内ポケットから名刺を一枚取り出し、女の胸元に差し出した。
 女は名刺から意識的に眼をそらしたが、「約束はしませんよ!」と言って名刺を受け取り、隣の生け花教室に入っていった。
 相手が受け取らない場合は、報酬は契約金額の7割と取り決めていたが、今のにはどうでも良くなっていた。

(7)〜すき間〜


「お母さん、駅に着いたんだけど迎えに来てくれない?」
 待子の腕時計は11時を過ぎていた。
「言ったでしょ。家の反対を押し切って、こんな夜遅い仕事に就いたのは待子なんだから、自分ひとりで帰ってらっしゃい」
「分かったわよ!もう頼まないから!」
 買ったばかりの携帯電話を握り締め、改札口を出た。
 待子が住むきみどり台は、駐車場付きの一軒家が林立する、中産階級の中でもまだ裕福な家族が住む兵庫県の新興住宅地にあり、業の町大阪までは、私鉄を乗り継いで1時間強かかる。
 4月から大阪に本部のある英会話学校の非常勤講師をしているが、授業の日は帰宅時間が遅くなるため、母親との口喧嘩が日課のようになっていた。
 待子は仕方なく夜道をとぼとぼと帰り始めたが、途中街灯が消えかけている通りもあり、不安になって何度か駆け足で走った。坂道を登りきって、自宅に着いたのは11時半。事務的に「おかえり」と挨拶する母親を尻目に、2階にある自室に直行した。
 ベッドに仰向けに倒れ、大きなため息をついた。
 空腹を知らせる腹時計がなり、(…お茶漬けでも食べようかしら…)そう思った瞬間、電話の受信を知らせる着メロが鳴った。
 携帯の電話番号を知っているのは、ごく親しい友人に限られており、何の緊張感も無く電話に出た。
「もしもし」
「オーラ!マチコ?」
聞き慣れない声である。
「え? もしもし」
「アブラ、サンチェス!サンチェスだよ。憶えてる?」
「サンチェス?」
「アセ・ドス・セマーナス、ほら2週間前サルサのバーで会った―」
「あー!」
 待子は思わずベッドから身体を起こした。
「どうしたのサンチェス? こんな時間に」
「テ・エストラーニョ、マチコ!マチコに会いたくて、近くまで来たんだ」
「近くって、どこに」
「ラ・エスタスィオン・キミドリ、今、きみどり台の駅にいる」
「どうして分かったの?」
「バーで教えてくれたじゃないか」
 待子は回想してみたが、思い出せなかった。テキーラを飲んだところまでは覚えていた。
「今から会えないか? 家の近くまで行ってもいいよ」
「え?!何時だと思ってるの!」
「テ・キエロ・ムーチョ!きみのことが好きなんだ」
「駄目よ、サンチェス。酔ったついでに何を言ったか知らないけど、あれで終わりよ」
「ポル・ケ? どうして?」
「もう、電話をしてこないでちょうだい。悪いけど、さようなら!」
 待子は携帯の通話を切り、電源までパワーオフにした。何だか怖くなり、母親に伝えようと思ったが、先ほどの口論もあり躊躇した。
 ペットボトルに入った飲みさしの緑茶を一気飲みした後、カード式の回数券を財布に入れた。気を取り直して、1階の台所に行きかけた時、気になって財布をもう一度見た。小銭入れの中に、名刺が一枚、くしゃくしゃになって入っていた。
―ティッカーコーポレーション代表タッド
 催眠術にでもかかったように、待子は携帯電話に番号を打ち込んで行った。

(8)〜ボトムライン〜


 の携帯の受信ベルが10回ほど鳴り、留守番電話になった。
―ティッカーコーポレーションです。申し訳ありませんが、ただ今電話に出られません。御用の方は発信音の後に、お名前・電話番号と共に、ご用件を録音してください。折り返しお電話させて頂きます―
 とありきたりの待ち受けメッセージが流れ、待子はため息をついたが、その後英語のメッセージが流れ、思いっきり携帯を耳に当てた。
―…Please leave your message after the sound beep. I’ll get back to you. Thank you for calling.―
 同じ内容の英語版であった。
 待子は伝言を残さず、再度、の携帯に電話した。と話がしたいというより、英語が話せるに驚き、英語力を確認したかったのだ。結局2度目も伝言を残さず切った。
(…何を焦っているの、私…)待子の胸は高鳴っていた。
 台所に下りたものの手に付かず、お茶漬けどころか、ホットコーヒーとプレーンの食パンをかじるので精一杯で、また自室に戻った。
 ステレオをつけても一向に耳に入らず、胸に痛みを感じながら、深夜の0時を迎えた。
 待子は一瞬電話を躊躇ったが、今の胸の鼓動を抑えきれず、携帯の再発信ボタンを押し応答を待った。
 今度は数回で、が電話に出た。
「もしもし、ですが―」
 走行中の車内で受信したのか、音が微かに途切れている。
「あ、あのー。さんですか?」
「もしもし。どなたですか?」
「花武庫待子です」
「花武庫さん? ちょっと待って下さい」
 電話をとった男性はまだ声が若い。電話越しに、「顧問。花武庫さんという方から電話です」という声が聞こえた。「花武庫? ―あー、花武庫さんか!電話変わってくれる?」。
「もしもし。さん、お願いします」
「花武庫さん、どうも。ごめん、危ないから車を止めますね」
 30秒ほどして、が再度電話口に出た。
「すみません。―あ、それで、あ、そうか。手紙を受け取る気になられたんですか?」
「いえ。あの…。今、お仕事中ですか? こ―」
「―あ、貿易のコンサルをやってるんですよ」
「コンサルって?」
「コンサルティングですよ」
「顧問とか、先ほどの男性が言ってられましたけど、さんは顧問なんですか?」
「いや、大したことありません。ちょっとお手伝いしているだけです」
「……」
「もしもし?」
「あ、ごめんなさい。あのー」
「近日中に、この前の手紙をお渡ししますよ。私もこの件は早く片をつけたいので」
「えー。…じゃ、今度の日曜日、阪急梅田駅の中央出口前の、階段のあたりで。2時でもかまいませんか?」
「―2時? いいですよ」
「お願いします」
 待子は電話を切ったあと、急いでダイアリーに書きとめた。
―6月25日(日)、午後2時、梅田駅紀伊国屋前。w/akinai―
 長く伸びた髪を後ろに束ね、鏡の前でニコッとしてみせた。
(…私、彼に敬語なんか使っちゃって、どうしたのかしら…)
 鼻歌気分でクロゼットから着替えを出し、バスルームに向かった。

(9)〜人の陰〜


 その後、毎日のように待子のもとにサンチェスから電話があった。
 着信拒否にしても、履歴が全て彼からの電話のように思え、被害妄想という四文字が頭をかすめた。
 との待ち合わせを4日後に控えた6月21日、やはり家族や警察には打ち明けようと心に決めたが、結局大袈裟になるのが嫌で、また踏みとどまってしまった。

 待子には被害妄想になるだけの過去があった。
 今でも思い出すだけで、唇を噛み締めるほどの忌々しい過去…。
 西宮市の私立女子大英文科在学中の2年目の秋、待子はアメリカの西海岸のコミュニティーカレッジに留学した。最初の数ヶ月はかなり緊張し、大学とホームステイ先を往復するだけの至って真面目な生活を送っていたが、友人が増えるにつれ他の語学留学生にも心を開くようになり、男子学生との交流も多くなった。
 そんなある日、友人のバースデーパーティーを終えてホームステイ先に戻ると、クラスメートのマイケル・チャンが玄関で待っていた。マイケルはアジアから語学留学で来た唯一の男子学生で、待子が住むホームステイ先からほんの2ブロック行った所の、男子学生専用のホームステイ先に滞在していた。
 理由を訊くと、待子のことが好きで、前々から話したかったと答えた。
 玄関で1時間近くも待ってくれていたマイケルのことを不憫に思い、何の不安もなくリビングルームに入れた。たまたまその日は、ホストファミリーがニューヨークへ2泊3日の旅行に出ていて、待子独りであった。
 10分ほど雑談をして話題が途切れた頃、「ごめんなさい、マイケル。今日は疲れたから、お開きにしましょう」と待子が切り出すと、突然マイケルが待子を羽交い絞めにし、ソファーに押し倒した。
 マイケルは力任せに、待子を欲しい侭にした。
 待子の乱れた衣服を気にも留めず、マイケルはその場を去った。
 大粒の涙が止め処となく流れた。マイケルのことは嫌いではなかったが、自分の意思に反して、大切な身体を許してしまった情けなさに、涙がとまらなかった。
―お父さん、お母さん、ごめんなさい―
 何度も懺悔し、そして嗚咽した。

 あれから早6年。米国での悪夢を忘れられはしなかったが、精神的には何とか克服した。―が、そしてサンチェス。外国人男性にはいつも貧乏くじを引く自分に、あらためて苛立ちを覚えた。
気が付くと、いつの間にかに電話をしていた。自室の時計が夜11時を回っている。
「もしもし。さん?」
「はい。―あ、花武庫さん? どうしたんですか?」
「ええ」
「あ!6月25日でしたよね。都合が悪くなったとか―」
「いいえ。ちょっと相談したいことがあって―」
「何です?」
 待子はサンチェスとのことを打ち明けた。そして、どうしたらいいのか、に訊ねた。
「なるほど。わかりました」
「―で、どうしたらいいでしょう?」
「花武庫さん。私はあなたと個人的に知り合っているわけではないので、仕事として承ってもいいですか?」
「え? どういうことですか?」
「サンチェスとの縁をきりたいんですよね?」
「ええ」
「本当に縁を切りたいんだったら、仕事代として私にお支払いください」
「できるんですか?」
「それは分かりません。只、成功すれば契約金額全額を頂きますが、失敗すれば無償でけっこうです」
「おいくらですか?」
「5万円です」
「……」
「どうなさいました?」
「人の弱みに付け込んで、お金を取るんですか?」
「失礼なことを言わないで下さい。これは遊びじゃありません。…じゃ、女性の化粧品はどうなんです。綺麗になりたい、肌荒れを隠したい、今より美しくなりたい…実際は、人間の弱みに付け込んでいるのと、変わらないじゃないですか。私だって生活があります」
 待子は一瞬、電話を切ろうと思ったが、考え直してにOKした。支払いは現金振込で1ヶ月後と決まった。
 はサンチェスがよく行くサルサバーと電話番号だけ待子に訊ね、電話を切った。
 翌日一度だけ、サンチェスから待子の携帯に電話があったようだが、それ以来バタッと電話がかかってこなくなった。
(…何者なの、さんて…)
 待子は胸に手を当て、に対して猜疑心以上に好奇心が優っていることに気づいた。
―明後日だったわね、さんと会うのは―
 自室のカレンダーに眼を遣り、独り呟いた。

(10)〜運命の悪戯〜


 じとっとした梅雨が続く中、6月24日の土曜日もその例外ではなかった。朝から鬱陶しい雲が空を覆い、昼から梅雨特有の勢いの無い雨がパラパラと降り始めた。
 午後1時に起床し、シャワーを浴びる。そして朝食と昼食を一緒にしたブランチをとった待子は、自室で授業の準備に取り掛かった。食後の眠気を押さえるために、ブラックティーを飲む。語学スクールで英検1級クラスを教えている待子にとって、2時から4時30分までの2時間半は、貴重な予習時間である。
straitjacket“拘束服”、obliteration“抹消、忘却”、scabbard“鞘”…」
 英語、日本語を繰り返してレスポンスを良くする。
 英単語の後は、サイトトランスレーション(サイトラ)、所謂、英語の語順で文の頭から情報を処理し、訳していく訓練をする。
And do you wonder/そして、皆さんは不思議に思うだろうか、/why everyone around you gets sick/なぜ周囲の人が全員病気になり、/and you don’t?/そして自分がならないのかを。/…」
 15分近くサイトラをやり、喝舌が良くなった。
 次に今晩やる授業の語彙問題・長文読解問題を、1時間かけ自分でも回答し注釈をつけていく。
 仕上げは米国CNNニュースの最新版をシャドーイング(陰のように追っかけて、英語発音を真似ていく)。最後のこの10分のプラクティスが、待子にプロ意識を維持させる大切な日課でもあった。

 4月開講の英検1級クラス。早2ヶ月が経ち、業の中心地で活況溢れる梅田の語学スクールで教える待子にも、ルーティーンワーク(日常のありきたりの仕事)を感じさせる時期が来ていた。仕事面では一切手抜きをしない待子であるが、彼女にも少し刺激が必要であった。
 いつもなら、”That’s all for today.”(じゃ、皆さんこれで終わりです)と授業の最後にひとこと言って足早に去る待子であるが、この日はいつもの待子ではなかった。
「みんな、6月の1級の試験は“駄目もと”でしょ。次の10月の試験に向けて、頑張りましょう!Keep your chin up!(元気を出して!)」
 生徒の一人が待子に寄って来た。
 ひょろっと背の高い大学2回生の男子である。名前は熊野川九児(くまのがわきゅうじ)、クラスでは英語のニックネームで、キースと呼ばれている。
「先生。元々、6月に合格できるなんて思っていませんでしたよ。―ですよね?」
 キースこと九児は、授業が終わって立ち上がった他の数名の社会人に声をかけた。
 一様に、とんでもない、とんでもない、とニンマリとした笑顔を見せた。
「それより、先生。明日、このクラスみんなで、淀川縁でバーベキューパーティーをするんですけど、来られませんか? 集合場所は、梅田駅の紀伊国屋の前、午後2時です。打ち上げじゃないな…まあ、英検1級受験の慰労会といったところですか―」
 キースは待子の顔を覗き込んだ。
「え? 明日? ごめんなさい。明日は駄目なの」
「先生、いつも日曜日は寝ているって言ってたじゃないですか」
「ごめんなさい。本当に駄目なの」
「デートですか?」
 待子の顔が一瞬、赤くなった。
「ちょっと親戚が来るのよ。ごめんね」
 咄嗟に思いついた言い訳であったが、あとでまずいと思った。
 翌日の6月25日の日曜日、午後2時といえば、待子はと会う約束をしていたが、集合場所と時間が全く同じであった。
「キース、ねえ、バーベキューってお昼ごはんでしょ。ちょっと遅いんじゃない?」
「いや、先生。日曜はゆっくり起きて、腹をすかしてくることにしたんです」
「あ、そう」
 待子は気のない返事をした。
See you next Saturday.(じゃ、また来週の土曜日)」と言って4階の教室を去った後、タイムカードが設置してある3階の事務局までエレベーターを使わず、非常階段を使い、途中足を止め携帯電話でに連絡を取った。

(11)〜約束〜


「(…おかけになった電話番号は、現在、電源が入っていないか、電波の届かないところにあります。一度電話を切ってから、もう一度おかけ直し下さい…)」
 待ち合わせ場所と時間を変えようと、の携帯に数回電話をしたが、同じメッセージが機械的に流れてきた。
 帰宅後も何度かトライしたが、結局、とは連絡がとれず、深夜1時に就寝した。

 翌日の6月25日、日曜日。いつもの雨模様であったが、自らを鼓舞するように待子は自宅を30分早く出た。約束の場所には40分早く1時20分に着いたが、会話学校の生徒との鉢合せを避けて、最寄のタクシー乗り場から遠巻きにを待っていた。
 が予定通り約束の時間に来れば、生徒が場所を離れるまで待ってもらおうと。そして待子がその場に現れなければ、は不安になって、きっと待子の携帯に電話をしてくるであろう、と予測した。
 1時40分過ぎ。語学学校の生徒がパラパラと集まり始め、2時5分前にはクラス全員と思われる8名が、塊となって雑談をしていた。
(…早く行ってくれないかしら…)
 待子はそう祈ったが、2時を過ぎてもバーベキューに向かう様子は無い。
 2時10分になった。も現れない。
 2時15分。生徒たちがぞろぞろと梅田駅正面のエスカレーターに乗り、中2階の切符売り場に向かった。それを見て、待子は紀伊国屋前に駆け足で向かった。刻々と近づく風景に、の姿は無い。待子の不安をよそに、家族連れやカップルが楽しそうに眼の前を通り過ぎていく。
 2時20分。の携帯に再度電話する。
「(…おかけになった電話番号は、現在、電源…)」と聞いたところで苛立ちを覚え、電話を切った。
(…いい加減な人ね…)
 そう思った瞬間、左後方から男性が近寄ってくるのが見えた。
 40代半ばに見えるが、日焼けした顔とがっしりした体格から、元スポーツ選手を彷彿させた。ストライプのスーツに黒のエナメル靴、そして細めのサングラス―このいでたちは“素人筋”ではないな、と待子にも分かった。
「花武庫さんですか?」
 男は低い声で、話し掛けてきた。
「ええ―」
 を知っているのか、と訊こうとした瞬間、男はあらぬ方向を見ながら、どすの利いた声でこう言った。
「あのー、今日はさんは来られません。また連絡があると思いますから、待ってて下さい」
「え? どうしたんですか?」
 男は煙たい顔をした。
「―訊かない方がいいですよ」
「あなたは?」
「余計なことは、、、あなたの身のためだ」
 正面から見る男の眼は鋭く、決してすごんではいないが、こちらの視線をそらさない迫力に満ちていた。
 待子は黙って頷いた。
 男は、内ポケットから携帯を取り出し、タクシー乗り場に向かった。
 待子の胸の鼓動は高鳴りこそすれ、静まることはなかった。

(12)〜錯綜〜


 との連絡がつかないまま、待子は眠れぬ夜を過ごした。
「母さん、きょうは月曜日でしょ?」
 台所で洗い物をしている母親の花武庫甚代(はなむこいたよ)が待子にかぶりを振った。
「何を寝ぼけたこと言ってるの。いつも変だけど、最近はもっと変よ」
「失礼ね!母さんの子だから、仕方がないでしょ!」
 お互いに貶し合っている母娘だが、それがまた一風変わった絆をつくりあげていた。
「もう11時よ。お昼は自分で作ってね。母さん、今日は高校時代の友達と久しぶりに会うから…もうすぐ出るよ」
「いいわ。昨日のカレーの残りを食べるから」
 甚代のカレーはかなりの辛口で、寝ぼけ眼の待子には丁度いいカンフル剤である。

 待子は、に会ったら、例の手紙を受け取って、送り主の男性にきちんと断ろうと思っていた。に言われたからかもしれないが、今まで思わせぶりにしてきた男性との付き合いを、自分なりに反省した。
 それにしても、とはいったいどういう人物なのだろう。
―見知らぬ男から手紙を受け取り、キューピット役として求愛する女性にメッセージを手渡す。サンチェスからのしつこい電話攻撃を、5万円もの報酬を要求したとはいえ、いとも簡単に電話を止めさせた陰の力。…そして、約束をすっぽかし、急遽“素人筋”ではない人間を伝言役として遣したファシリテーターとしての力量―
 どれもがどれも、待子に好奇心を起こさせるものばかりであった。
 昨晩のカレーを温めながら、ふと思った。
...a spice of mischief in his character...そう、スパイス(香辛料)が効いたように、彼の性格のいたずらっぽいところかな?―
 待子は英語にひっかけて、のことを分析した。

 フーフー言いながら、カレーを口に入れる。ガラスコップに入れた水道水を喉に流し込むたびに、疑問が増幅していく。
―約束の時間に来れないんだったら、どうして直接私の携帯に電話をしてこなかったのか。わざわざ別の男性に伝言を頼む理由とは…。さんは、あの筋の男と仕事上でも付き合いがあるのか―
 壁に掛かった昔ながらの鳩時計が、ピッポー、ピッポーと12時を知らせた。
(…ニュースでも見ようかしら…)
 そう思った待子はキッチンテーブルの上に置いてあったリモコンの電源を入れた。
「(…では、12時のニュースです。昨日、2時過ぎ、一人の男性が大阪梅田のHホテルの屋上から飛び降り自殺をはかりましたが、幸い15分後に説得され、思いとどまり、警察の事情聴取を受けた後、身内の人間によって無事ひきとられました。本人に怪我は無かったもようですが、警察が到着する前から男性の飛び降り自殺をくいとめようと説得にあたっていた男性がだれだったのか、身元の確認がとれていません…)」
 そして状況を目撃したホテルの従業員数名と、出来事を端的に伝えたサウンドバイトが、映像として流れた。
 屋上にいた男性を見たという二人目の目撃者の証言に、待子は息を止めた。

(13)〜動揺〜


 麻希子が通う私立女子高は、女子硬式テニスの世界的なプレイヤーの出身校として有名である。テニス以外のスポーツでも、常にインターハイに名を連ねている。
 学究面でも、ニュージーランドのクライストチャーチに姉妹校があり、高校・大学と国際的な交流が華やかだ。
 名門校ゆえの厳しさか、麻希子が所属するバドミントンクラブも、その例外ではなかった。早朝練習に放課後の体力トレーニング…試合前になれば鬼のような練習が毎日のように続く。
 クラブの厳しさはまだしも、女子高特有の陰湿ないじめが、麻希子には堪らなかった。
 体育の授業中に、汗拭きタオルがトイレの便器に投げ入れられるのは日常茶飯事であったが、スパルタ的な早朝練習といじめが重なった時は、気が滅入った。
 との英語の授業を1週間後に控えた6月27日の火曜日。麻希子は同じバドミントンクラブの阿武隈玲子(あぶくまれいこ)と帰宅の途に着いていた。腕時計は既に夜8時を回っている。
「ねえ、麻希子。最近、元気ないわね」
「そう?」
「ほら。イケテナイ、イケテナイ、その顔」
 玲子が人差し指で、麻希子の顔を突付くような仕草をした。
「もう、クラブ止めようかと思って―」
 玲子は驚いて立ち止まった。
「どうして? しんどいから?」
「……」
「あ!もしかしたら、黒腹(くろはら)先輩のこと?」
「うん―」
 気の無い返事に苛立ちを覚えた玲子は、畳み掛けるように言葉を放った。
「あんな先輩、気にしないでいいわよ。いつもイライラしてさ。私達をストレスのはけ口にしているじゃない。本当、許せない!」
「―別に、どうでもいいわ」
「もう、、、どうしたの麻希子」
「これから真面目に勉強しようかと思って」
 緊張から解き放たれたように、麻希子の顔から小さなえくぼが覗いた。
「勉強って?」
「うん。―ほら、2週間まえだったかしら、家の用事があるって、クラブを早く抜けたでしょ。あの日、うちに家庭教師が来たの」
「へえー。ねえねえ、どうだった?」
「どうって?」
「イケメンだった?」
「別に。中年のオジサンよ」
「キショイ!」
「―かもね」
 麻希子は何を言われても良かった。
 に特別な感情を抱いているわけではないが、会えるのを楽しみにしていることだけは事実だった。
「ねえ。そんな中年男は相手にしないで、クラブを続けようよ」
「玲子。ごめん、もう決めたの」
「黒腹先輩のことは、部長に言っとくから…もう2、3日考えてよ」
「いいって、もう」
 麻希子は首を大きく振った。
 クラブの帰りにいつも立ち寄るコンビニ。この日、麻希子は見向きもしないで通り過ぎた。
 さよならの挨拶もしないで、玲子は麻希子の背中を見送った。

(14)〜成長期の痛み〜


「麻希子、今晩、父さんは飲み会で、ごはんは要らないんだって」
 その晩の最上家は、母杏子と麻希子の水入らずの夕食であった。
 フリーターの兄はどこ吹く風で、滅多に家に帰らない。
 いつもならご飯そっちのけで、テレビに釘付けになる麻希子。ところが今の麻希子は、別人のようにおでんをゆっくりと口に頬張り、催眠術にでもかかったような仕草をしている。
「ねえ、麻希子。聞いてるの?」
「―ん。え?」
「どうかしたの?」
「別に…。あ、母さん、家庭教師の人、来週の火曜日だったわね」
「えーと」杏子は保険外交員として愛用している黒のショルダーバックから手帳を取り出そうとした。
「いいわ、母さん。覚えてるから」
「麻希子、どうかしたの?」
「―母さん、ゴメン。私、クラブ、辞めるわ」
「そんな中途半端なことで、どうするの」
「私、英語頑張る」
 麻希子の口調は、空気が抜けていく風船のようであったが、初めて英語にやる気を示したことで、反対するのもどうかと杏子は思った。
「やるんだったら、本気にやらないと駄目よ」
「わかってる」
 味噌汁のおかわりを入れに、杏子が椅子から離れた。
「あの先生は、そんじょそこらの先生とは違うのよ」
 麻希子がお箸を止めた。
「どう違うの?」
「ほら、保険のお客さんで化粧品の販売しているケバイお客さんがいるって、前言ってたでしょ。覚えてる? その方の紹介なんだけど、あのさん、以前は海外を飛び回っていた社マンで、色んな経験をされているらしくて、人間関係が、、、ええっと、何て言ったけ、人間関係が色々あること―」
「ネットワーク?」
「そうそう、そのネットワークが沢山あって、英語もさることながら、海外向けの売を考えている人には、本当重宝がられているみたいよ」
「ふーん」
「英語オタクの先生より、そういう先生のほうが、英語を教えるのはうまいんじゃない、たぶん」
 杏子がズルズルと味噌汁を啜った。
「母さん、テキストは買わなくていいの?」
「先生が用意するって言ってたから、来週来られたら時に、テキスト代は払うわ」
 麻希子は気になっていた。
 社マン、英語の先生。ただそれだけではなさそうだ。何か隠している。それが何なのか、それは今の麻希子には分からない。
「クラブはすんなり辞めれるの?」
「さあ。…でも私には関係ないわ。クラブの先輩が何を言おうと、辞めるものは辞める」
「麻希子。あんた、あの先生で本当、大丈夫なの? 嫌だったら、別の先生でもいいのよ」
「母さん、でも保険の付き合いってもんがあるから、断れないでしょ? いいわよ」
 これっぽっちも思っていなかった感情が、麻希子の口から自然発露的に出てきた。
 夕食を済ませた麻希子が、2階へ上がりしな、杏子にポツンと呟いた。
「母さん、有難う。…家庭教師」
「いいよ」
 成長期の痛み。その痛みが、間違った方向に行かねばいいが、と杏子はこの短い答えの中に祈りをこめた。

(15)〜伝言〜


「あれ、さんじゃない。お久しぶりね!」
 日本レストラン《お加味》の女将が、厨房から和服姿で現れた。
「何時シンガポールに来られたの?」
 Sホテルの2階に陣取るこのレストランは由緒あるレストランで、カジュアル系の観光客は余り立ち寄らない。五つ星のSホテルに相応しく清潔感が溢れ、用でシンガポールに来た日本人ビジネスマンには、うってつけのオアシスである。
「月曜日です」
「今日は7月1日でしょ。あら、もう1週間になるわね?」
「ええ」
 女将は給仕係に、上質の刺身とビールをのテーブルに運ばせた。
「あまり気を遣わないでください。今回は野暮用で」
「野暮用って?」
 が黙って刺身に手をつけた。
「―ごめんなさい。詮索する気は無かったの」
 うなじに手を当てる30過ぎの若女将の仕草が、いやに女を放っている。
「今度来る時は、ゆっくりしていきます。その時は―」
 女将は白魚のような手で、の左手の甲を抓った。
 常連客だろうか、女将がレジまで足を運び、挨拶に行った。
 黒のタートルネックのシャツにグレーのジャケットと、シックないでたちの。観光客には絶対に見えない、国際ビジネスマンとしての風格があった。
 周りに客が居ないのを確認して、徐にシャツのポケットから煙草を取り出した。火をつける気配は全くない。
 煙草のケースに書いたボールペンの文字を、小声で読み始めた。
「(…SUOK。NTAQ…)」
 窓外に眼を遣ると、スポットライトに当たった日本庭園がくっきりと浮かんでいる。
 夜10時を回ったころ、ぽっちゃりとした背の低い男性が、レストランに入ってきた。店員のいらっしゃいませの挨拶にも見向きもしないで、のテーブルにやって来た。
「アキナイさん、久しぶりね」
 華僑の人間らしい。ドカッとの斜交いに座った。
 はガラスコップをもうひとつ注文し、ビールで乾杯した。10分経つか経たないうちに、「アキナイさん、また来るわ」と言って、男は席を立った。
 別れ際、は、「煙草どうぞ。吸って下さい」と、メモが書かれた先ほどの煙草ケースを男に渡した。
 日本時間夜11時。
 は勘定を済ませ、8階のホテル部屋に向かった。

(16)〜リエゾン〜


 社勤務の頃から、このSホテルが好きだった。開業は1985年。正式名称では後ろに“タワーズ”とつくことから、読んでいても語呂がいいと気に入っていた。
 他にも、中心街に位置する地下鉄のニュートン駅のすぐそばにあり、芳醇な海鮮料理が自慢の屋台街のニュートンサーカスにも目と鼻の先と、仕事・グルメと申し分なかったからである。
 が宿泊する8階の《カバナルーム》は、シティーリゾートを意識したプールサイドの部屋で、Sホテル自慢のホスピタリティーの真髄とも言える。
 部屋に入り、プールサイドのカーテンを開ける。柔らかく照らされたプールの水が、眼下でやんわりと光っている。yun_1686.jpg ルームバーからバーボンを取り出し、うす底のガラスコップにアイスを入れ、2、3度、口に放り込む。
 グッと胸に焼きつくこの感触がたまらない。
 ダブルベッドに眼を遣り、一瞬別れた家族のことを思い出した。
(…思い出すまい…)
 右手の拳を握り締め、自らを鼓舞するように、左手の手のひらを叩いた。
 ベッドサイドテーブルの電話に手を伸ばし、ダイヤルを回す。自然と身体がベッドに横たわった。
This is Akinai speaking. Could I speak to **** ?ですが、***さんお願いします)」
 電話は全て英語で通した。
Right ... Right ... It’s a two-way street on my team. Am I making myself clear? (ええ、ええ、私たちの仕事は持ちつ持たれつで成り立つんだ。分かってもらえたかな?)」
 は相手の返事を待つまでもなく、いらついたように電話を切った。
 世界をまたに駆け、多くの困難をクリアーしてきた社マン征。しかし、まだ忘れられない家族への想いと今やるべき仕事との狭間で、葛藤していた。
 仰向けになりながら、独り言のように呟いた。
「(…花武庫待子…最上元麻希子…よし…)」
 煙草の煙がみるみる天井へと吸い込まれていく。
「(…The day after tomorrow.(あさってだな)…)」
 その数秒も経たないうちに、は眠りについていた。

(17)〜CV〜


 7月3日、月曜日。シンガポール、チャンギ国際空港の出発便ロビー。
深夜、関空に向け帰国する日本人旅行者でごった返している。その中に、要領よくチェックインを済ませ、独りさっさとゲートに向かうの姿があった。
 数日の用でシンガポールに来る日本人ビジネスマンには、とても重宝がられている深夜便である。翌日早朝に帰国、そのまま出勤というわけだ。
社マン時代からお気に入りのSQ(シンガポール航空)。そのビジネスクラスに搭乗したに、早速CA(キャビンアテンダント)がドリンクの注文を取りに来た。右隣の通路側の席が空いている。
Would you like something to drink, Sir?(何かお飲み物は如何ですか?)」
 脚線美を引き立たせるスリットの入ったユニフォームが実に眩しい。
Scotch and water, please.(スコッチの水割りをお願いします)」
 観光客と一線を引くような使い慣れた英語に、CAは満面の笑みを返した。
 の英語の巧さは社時代から定評があったが、いつも二人席の通路側の席が開いた窓側に座っているのは、チェックイン時の英語による交渉力の賜物か。
 暫くして、搭乗機がタキシング(誘導路を移動)を始め、エアーストリップとも呼ばれているランウェイ(滑走路)に向かう。
 誘導灯が色鮮やかに、進行路を指し示している。何百回と見た光景だが、これほど帰国便が出国便に思えたことは無かった。やり遂げるべき仕事。それは地理的要因を度外視させるほどの内容のあるものであった。
 離陸後10分ほどで巡航高度に達し、はアームレストから簡易テーブルを引っ張り出した。
 座席の下に置いたブリーフケースから一枚の封筒を取り出す。《履歴書》と書かれた朱書きの文字を一瞥し、徐に中から用紙を摘み出した。
力強く黒のボールペンで埋めていく。

読  み:あきない ただし
姓  名:     征
生年月日:昭和**年**月**日
住  所:兵庫県**市**町**番地**号
学  歴:昭和**年3月、***大学経済学部経済学科卒業
資  格:英検1級、ビジネス英語検定グレードA…
         ┋
 
 書き終えた頃、機内食が運ばれた。テーブルクロスにマッチングした清潔感のあるワイングラスに、ヴィンテージワインが注がれる。CAとのスモールトークが食欲をそそる。
You must be proud of working at Singapore Airlines.(シンガポール航空勤務とはご自慢でしょう)」
 が “proud” と “Singapore” にアクセントを置いてCAに話し掛けると、
Yes, I am. Thank you for flying with us, Sir.(はい。SQをご利用頂いてありがとうございます)」
 と品のある笑顔が返ってきた。
 インフライトムービー(機内映画)が始まった頃、は3杯目の水割りをお代わりしていた。
Mr. Akinai, you are so cool!さん、本当イカシテル!)」
 CAがの耳元で囁きながら、胸元にブランケットを掛けた。
 日本時間、午前2時30分。

(18)〜心模様〜


 7月4日、火曜日。麻希子は朝からそわそわしていた。
 バドミントンクラブに退部届を出し、放課後、今まで学校に置きっぱなしにしていた教科書を整理整頓、家庭学習用に持ち帰った。
「ねえ、麻希子、熱があるんじゃない」と、クラスメートからからかわれる一場面もあった。
 5時半過ぎに帰宅、すぐにシャワーを浴びた。
どこで手に入れたのか、有名ブランドのパーヒュームの香りが、風呂上りの麻希子を包んでいる。
 母親の杏子が30分遅れで帰宅。両手いっぱいに持った食材が重々しい。
「麻希子、何か身体につけたの?」
 鼻をもじもじさせながら、杏子が台所に入っていく。
 生保外交員として一日中歩き回っている杏子。伝票をテーブルいっぱいに散らかし、ため息交じりに心で呟いた。
(…本当、疲れちゃうわ。パパがもっと稼ぎが良かったら、ここまで働かなくても…)
 伝票の整理がついた頃、玄関のブザーが鳴った。
「麻希子、先生だよ!」
 杏子が呼ぶまでもなく、あの腹に響くアメリカンバイクのVツインエンジン音が近づくにつれ、訪問客が誰であるかぐらい、麻希子にも分かった筈だ。
「上がって貰って!私の部屋で教えてもらうから」
 杏子は戸惑った。いくら信頼しているとはいえ、思春期の女子高生の部屋に二人っきりにさせるのは無謀と思えたからだ。
 只、を眼の前にして応接間で教えてもらいなさいとも言えず、「―んーん」と言葉を詰まらせていると、が気を遣って、「お母さん、ご心配なく」と言って、木製の階段を上がり、麻希子の部屋に向かった。
「こんにちわ」
 を待っていた麻希子が、最大限に大人を演出しようとしているのは、言葉尻からも分かった。
「先生、どこかに行ってたの?」
「え? どうして?」
「顔が焼けてるから。南の島でも言ってきたんじゃない?」
 は少し言葉に詰まった。
「―そうだと嬉しいんだけど。金にならない仕事ばっかりで、歩き回った挙句にこのザマだよ」
 右手の掌で頬を数回叩いてみせた。
 確かに、南国焼けしていた。
「麻希ちゃん、じゃあ、英語の勉強をしようか」
「あ、そうそう。教科書代、お母さんが払うって言ってたけど、いくらだった?」
「あ、大丈夫。あとでお母さんから貰うから」
 は英語の基礎から教えていった。
 輝いている麻希子の眼を見て、英語に興味を持ってくれればと願う一方、いつまで教えて上げられるのだろうかと、不安にもなった。
 今、麻希子には打ち明けられない。ひた向きに問題集を解いている麻希子の姿を見て、少し胸が痛くなった。
「先生。終わったよ」
「―あ、あー」
 課題の箇所を全て解答した麻希子が、を覗き込むように見た。
「先生。あの―」
「ん?」
「―いや、別に」
 麻希子が胸元のボタンをキュッと握った。

(19)〜もう一人の自分〜


 2時間の授業が30分超過し、最上元家の柱時計は9時を回っていた。
 玄関で靴を履くの背中を見ながら、麻希子はもう帰るのかと、残念そうにチェックのミニスカートの前で腕を揉んでいる。
杏子がの耳元で囁いた。
「先生。本当に3万円でいいんですか?」
 週1回2時間の月4回で、交通費込みである。
「ええ。十分です」
「今日は30分オーバーですね」
「大丈夫です。麻希ちゃん、とっても熱心で楽しいですよ」
「すみません」
 がフルフェースのヘルメットを被り、立ち上がった。
「では―」
 麻希子が突然、花柄の突っ掛けを履いた。
「麻希子、どこへ行くの?」
「ちょっと、先生を見送るだけ」
 そわそわして、と一緒に玄関を出た。
 薄明かりの街灯が、頼りなさそうにチカチカ点滅している。
 がバイクを停めている場所までほんの10メートルしかないが、麻希子は両手を後ろに組みながら、黙っての後をつけた。
「麻希ちゃん、暗いからもういいよ」
「先生、これ」
 麻希子が右ポケットから封筒のようなものを差し出した。
「部屋で渡そうと思ったけど…先生、家に帰ってから読んでね」
「分かった」
 は右手を麻希子の左肩にそっと乗せ、「英語、この調子で頑張ろうね」と優しい言葉を掛けた。
 麻希子は身体を少しくねらせ、「おやすみなさい!」と言って家に戻った。

 台風3号が西表島に接近、鹿児島地方が暴風圏に入った。
 たとえ近畿地方に上陸することになっても、来週火曜日のレッスンまでには通過しているだろう。そんな仄かな期待を抱きながら、麻希子は台所のテレビを見た。
「お茶漬けでも食べる?」
 麻希子は小さく頷いた。
「ねえ、母さん。先生のことどう思う?」
「どうって?」
「……」
「私、梅茶漬けでいいわ」
「自分で訊いておいて、変な子ね」
「できたら呼んでね」
 麻希子は元気に2階に上がった。
 自室に入った麻希子は、スヌーピーの目覚し時計を指差しながら、の帰宅時間を推し量った。

(20)〜決断〜


「お久しぶりです。どうぞ」
 定休日にも拘わらず、痩身の白髪交じりの男性が、を中に入れた。
 新興住宅街にあるインターネットカフェ。喫煙者である筈のが、禁煙席に案内された。
 客足が殆ど無いネットカフェを経営するこの男性。通称“カンさん”と呼ばれている閑散寂(かんさんじゃく)である。年齢は62、痩身にグレーのベストを着用。黒ぶちの眼鏡がキラッと光り、ちょっと見、大学教授に見える。
「ありがとう」
 大きな換気扇が頭上で唸る喫煙席を通り過ぎ、一番奥の禁煙席に座った。
喫煙者でも公共の場では吸わない、流の男の美学があった。
 7月5日、水曜日、正午を少し過ぎている。
 昨晩麻希子から受け取った封筒をブレザーの内ポケットから取り出し、徐に開いた。
 眼を封筒に遣りながら、軽食を注文した。
「カンさん、カレーできる?」
 閑はニコッとした。
「勿論ですよ。タッドの為なら、何でも作ります」
 は左手を大きく挙げて、感謝の意思表示をした。
 マスターと二人きりの店内であるが、この静けさがには心地よかった。
 早速、麻希子からの手紙を広げる。

―先生、楽しい授業ありがとう。
 先生が、最初に来た時、文法なんて気にしなくていい、英語は気持ちで喋るもんだ、って言ってくれたでしょ。その言葉で本当に気が楽になりました。感激しました。
 今まで、文法のことばかり気にしていて、言葉を伝えることなんてこれっぽっちも考えていなかった私。なんだか恥ずかしくなりました。そう、英語の成績より、人間的なコミュニケーションの方が大切だよね。
 先生はバイクが好きなんですね。バイクに乗ってる時の先生、カッコイイ!(ウソじゃないよ)
 今度、時間があったら後ろに乗せてください。できたら麻希子、海が見たいな。
 先生、これからも色んなこと教えてね。
 先生に会えてよかったです。
 また、来週。
 With Love – Makiko おやすみなさい―

 ちょうど手紙を読み終えた時、恰幅のいい男がぶっきらぼうにカフェに入ってきた。
 マスターに一礼した後、禁煙席に向かい、の隣に座った。
 男は厳顔になって、に耳打ちした。
「顧問。消されました」
「―か?」
 はいつも携帯する黒手帳の真中辺りを開き、左のページの一番上を指差した。
「何時だ?」
「昨晩です」
「マスコミは?」
「まだ知りません」
「そうか。そろそろだな」
 男は少し首をたれた。
 は男の肩を2、3回叩き、「ありがとう」と労った。
「カンさん、悪いけど、こいつにもカレー作ってやって!」
 店内にの低い声が響いた。

(21)〜好奇心〜


 スパイスの効いたカレーの匂いが、店内を支配し始めた。
 暫くして、マスターがカレーを持ってきた。
「どうぞ召し上がってください」
「ありがとう」
 の隣に座る男は、「オッス」とひとこと言って、食べ始めた。
 マスターが厨房に戻ったのを見計らって、が男に訊いた。
「花武庫待子の方は大丈夫だな?」
「ええ。あの日、梅田の駅前で会った時、また連絡するから、余計なことは訊くなって言っておきました」
「怪しんでいたか?」
「ええ」
「それでいいだろう」
「顧問―」と男が言いかけた時、が遮った。
「いいか、女は好奇心だ。心配するな」
 男はキョトンとした顔をした。
「俺が画家で、りんごの絵を描くとしよう。まともにりんごの輪郭を描いて、これはりんごですと分からせるのは簡単だが、それでは俺は一画家で終わってしまう。印象には残らない。ところが、輪郭を描かずに、背景や色使いで最後にりんごと気付かせることが重要なんだ。俺の絵を見ている者は、何を描くのか好奇心にかられ、最後になって自分の想像力でりんごと分かる。その答えに至る過程で想像力を膨らませる。その引力が強ければ強いほど好奇心は高まり、側にいようとする」
 男は頭では頷いていたが、理解していないようである。
「俺は画家で、絵を見ているのは花武庫待子だ。…これが後になって生きてくる」
 は男に封筒を渡した。
「明後日だったな。これを待子に渡しておいてくれ」
 男は上下に首を振った。
 二人が食べ終わった頃、店に新聞の集金がやって来た。マスターが支払いを済ませ、また厨房に戻った。
 男は店内を見回し、を置いて出て行った。
 マスターが大きな茶封筒を持って、の所にやってきた。
「タッド。これです」
 封筒の送り主の名前が英語で印刷されていた。
 中に写真が数十枚同封されており、一枚、二枚と手にとるたびに、は大きく眼を逸らした。

(22)〜マグネット


 7月9日、日曜日。
 花武庫待子の足は震えていた。
 世界最長の吊橋、明石海峡大橋の主塔、海上300メートルの遊歩道にいる。
 強風や地震対策のための免震装置があるとはいえ、心臓の鼓動が激しくなる高さである。
IMG_0061_thumb_1.jpg(…もっと、落ち着いて話せる場所があるでしょうに…)
 待子は少し苛立っていた。
 梅田で会う約束もすっぽかし、電話のひとつも入れてこなかった
(…本当、男って勝手だわ…)
 苛立った気持ちを伝えようとしたが、自分の今の気持ちがほんのちっぽけなことのように思わせる大パノラマが360度、待子の眼前に広がっている。
さんって、変わった人ね」
「どうして?」
「こんなところ、普通、デートコースに選ぶ?」
 の頬がピクッと動いた。細手のフレームのサングラスに、陽光が反射している。
「デートって…花武庫さんは僕のクライアントで、依頼のあった手紙を渡す相手に過ぎないよ」
「意地悪ね」
「……」
「ねえ、あの怪しそうな男、誰なの?」
「仕事の仲間だよ」
「あまり関わらない方がいいんじゃない」
「大丈夫」
 シンガポールで身を潜めていたことを、待子には言っていない。親戚に不幸があり、その後、遺産相続問題でごたごたがあり、電話どころではなかったと伝えた。ぴりぴりした状況であったので、待子に嫌な思いをさせてはとの配慮からである、とは素直に謝った。
 時折突風が二人を襲う。
 待子が幾分近づいた。
「ねえねえ―」とに身体を摺り寄せる。
「あの手紙、ちょうだい!」
 依頼人の男性から受け取った例の待子宛ての手紙のことである。
 はビニール袋に入れた手紙を手渡した。
「雨に濡れても大丈夫なように?」
「ああ」
待子はちょっとした配慮に感動した。
「この手紙の男性と付き合っちゃおうかな?」
 様子を窺うように、の顔を覗き込んだ。
 は待子から顔を逸らし、ぽつんと言った。
「彼も喜ぶよ、きっと」
 明石海峡を航行するフェリーが、蟻のように小さく見える。
 はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジとオーバーラップさせながら、橋梁に眼を遣った。
 の左腕に強い力が加わる。
 待子が自分の胸元に、の腕を思いっきり引き寄せた。

(23)〜使命〜


「そろそろ行こうか」
 は距離を置こうとした。
 が、待子は腕を放そうとしない。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「ん?」
「サンチェスのことだけど、あれだけしつこかったのに、よく止められたわね」
 サンチェスとはサルサのバーで知り合ったラテン男性のことだが、以来、待子のところにひっきりなしに電話をかけ、頭痛の種になっていた男性である。に打ち明けたところ、5万円で片をつけると持ちかけられた。藁をも掴む思いで依頼したところ、ものの一日で、サンチェスからの電話が全く来なくなった。
「もう電話はないだろう?」
「ええ。でもどうしたの?」
 の眉間に皺がよった。
「蛇の道は蛇だよ」
「じゃなくて、方法―」と言いかけて、が遮った。
「訊かない方がいい場合もある。あまりしつこいと、男に嫌われるよ」
 待子の腕を振り払うように、は歩き出した。
「代金はいつ払えばいいの?」
「今月末でいい」
 はかぶりを振り、以前待子に渡した名刺とは違った名刺を手渡した。
「振込先が書いてあるから、そこに」
 つっけんどんな言い方だったが、ビジネスライクなに、待子は益々惹かれていった。

 大パノラマを見納めた頃、外国人観光客がドッと遊歩道に上がってきた。図体の大きい、腹の出た輩が所狭しと動き回っている。阿吽の呼吸で、二人はエレベータに乗り込み、地上に降りた。お互い雑踏が嫌いなのは、目でわかった。MAki2.jpg
 JR舞子駅に着いた時、待子が砂浜に入りたいと言った。
 明石海峡大橋から須磨海岸に向かう。10分ほどで須磨駅に到着。
 潮の香りが二人を包み、早々と海開きした海岸に足を踏み入れる。帰宅の途につく家族ずれと途中すれ違う。
「気持ちいい!」
 待子が波打ち際まで、独り駆け出した。
 子供のようにはしゃぎ始めた待子を見て、は心が揺らぎ始めた。
(…今の自分をとるか、それとも…)
 ほんの1メートルと背後に近づいた時、待子が振り向いた。
「ねえ、裸足にならない?」
 待子はスーっと眼を閉じた。
 両手を後ろに組み、思いっきり胸を突き出し、女を表現している。
 柔らかい唇と一体化し、は吸い込まれそうになった。
 待子が右手の人差し指で、の鼻をポンッと突付いた。20060401141724.jpg
「アキナイ・マチコ…悪くは無いわね」
 待子は裸足になり、打ち寄せる小波を両手で掬った。
 明石海峡を航行する遊覧船が、西の方角から警笛を鳴らす。
 人恋しいような、物悲しいような。
 二人の時間が流れ始めた時、辺りは暗くなっていた。
 今打ち明けられない思いを歯がゆく感じながら、はそっと煙草に火を点けた。

(24)〜アンビヴァレンス〜


 大学時代、は多くの女性と付き合った。両手では足りないぐらいの数である。
 無茶な付き合いはしなかったが、本能と感受性のままに行動した時期であった。
 須磨海岸には当時の想い出がたくさん詰まっている。
―いつもデートにお弁当を作ってきてくれた家庭的な栄養学部生
―会う度に教育論を戦わせた知的好奇心の強い国立大学の教育学部生
―セクシーであったが、2度目のデートで両親と会って欲しいと結婚を迫ってきた英文学科生
―自分のアパートを下宿先のように提供してくれ、夫婦のような生活をしてくれたスペイン語学科生
        ┋
 途切れることのない想い出と共に、今迄多くのランデブーとメモリーを提供してくれた須磨海岸に、改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。Sunset.jpg
「ねえ、何を考えているの?」
 浪打際でしゃがみこんでいる待子が、寂しい眼で訊いた。
 周りに人影はない。
「別に」
 こんな冷たい答え方しか出来ないのかと、は自分に苛立った。
 待子は立ち上がって、独り浜辺を歩き出した。
 日没が否応なしに二人に迫る。

 はふと、岡山出身の外大生のことを思い出した。季節は11月、他大の文化祭でのことである。学生パーラーの横でたこ焼きの売店を出していた彼女が、通りがかりのに声をかけてきた。
「如何ですか。美味しいですよ!」
「いくら?」
「50円です」
「本当に美味しい?」
「岡山の私が作るから、絶対に美味しいんじゃって」
 岡山弁が実に新鮮であった。
 眼の前で食べて見せたは彼女と意気投合し、文化祭が終わる3日後に、神戸で会う約束をした。そのランデブー場所が須磨海岸であった。
 その日も同じように日没が迫っていた。砂浜で隣同士二人しゃがみこみ、キラキラと光る小波をじっと見つめていた。
「きれいね」
「そうじゃね」
 彼女の眼は純粋に輝いていた。
 は吸い込まれるように、彼女の唇に抱擁した。
 彼女は黙っていた。しばらく…。
 そして、待子と同じように、の鼻を人差し指で突付いて見せた。
「これ以上は、駄目じゃよ」
 は返事に困った。
「怖いんじゃ。独りで下宿しとるし―」
 は触れてはいけないものに触れてしまった、そんな気分に囚われた。
 3回生のと1回生の彼女。ただそれだけではなかった。綺麗な白い半紙に、最初の一筆を入れるような、そんな勇気の要る、それでいて汚したくない、複雑な気持ちになった。
 海岸でのランデブーの後、彼女を下宿先まで送り届けた。
「じゃあ、おやすみ」
くん、上がっていく?」
「いや、明日、授業1時限目からあるから」
「楽しかったよ。ありがとう」
 これが二人が交わした、最後の会話となった。
 彼女は、が最初のデートで自ら身を引いた、唯一の女性となった。sunset-photo-ss.jpg

 は心を吹っ切って、待子に駆け寄った。
「独りにしないでよ。寂しいじゃない」
「……」
「どうせ前の彼女のことでも、思い出してたんじゃないの」
「まさか」
「図星でしょ」
 待子の胸元のボタンが2つ、余計に外れている。
「人生色々あるからね」
「まあ、いい加減な言い方!」
 は待子の肩にそっと腕を回し、額に抱擁した。
「帰ろうか?」
 待子は黙って頷いた。

(25)〜本性〜


 月末までまだ10日以上もある7月18日、約束の5万円がの口座に振り込まれた。振込み人は“ハナムコマチコ”である。
 麻希子との家庭教師の仕事を終えて帰宅したは、銀行通帳の入金欄を再度確認して、肩をすくめた。
(…けっこう意地っ張りだな…)
 月末が振り込み期限であった仲介料、放っておけない待子の性格が手に取るように分かった。
 普通なら、仕事とはいえお互い親しくなれば、いくらか代金を安くするものだが、そうも出来ない理由がにはあった。今は敢えて、距離を置いている方がいい。そう自分に言い聞かせた。
 夕食は麻希子のところで済ませていた。煮物が好きな杏子は、この日はおでんをテンコ盛り作り、腹が割れるほどにもご馳走した。
 帰宅早々、冷蔵庫の缶ビールに手を伸ばした。
 350ミリリットルの生を一気に飲み干した。クーッと胸に凍みたところで、台所のカレンダーに眼を遣る。7月21日の先勝と印刷された文字の下、“書類選考の結果”と記した赤の殴り書きの文字が、右肩上がりで書かれていた。
(…汚い字だな…)
 思わず自嘲した。

 はここ数日、集団心理、群集心理について調べていた。
ネットカフェの閑散寂(かんさんじゃく)から受け取った写真は、単なる風景写真ではなかった。悪夢と言っても過言ではない写真の数々。の心を引き裂くほどの、惨いものばかりであった。
 動物でも、ここまでは殺るまい…動物でも。01_28_3_web.jpg ライオンだって、生きていくためには他の動物を捕食するが、それ以外の理由では殺さない。
 ところが人間はどうだ、人間は。なんてザマだ。
 ベッドに横になり、群集心理について記した書物に眼を通した。

―匿名性(無名性):大勢になればなるほど、自己の言動に対する責任感と個性がなくなり、しばしば無責任、無反省、無批判な行動になりがち。「赤信号みんなでわたれば」といった心理になる。
―被暗示性:暗示にかかりやすくなる。人に言われたり、その場の雰囲気にしたがった行動をしてしまう。目立つ人、声の大きな人、の過激な号令に盲目的に従ってしまうことも。また、人の思いがまるで伝染するように、共通した考えや感情を持ちやすくなる。
―感情性:感情的になる。論理的に考えられなくなる。
―衝動性:理性のブレーキがきかなくなる。
―力の実感:自分達が強くなったような気がする。
      ┋

 は読み進むうちに、大学時代、社会心理学の授業で勉強したことを思い出した。
 それは、《人間は一人で考えて結論を出すよりも、集団で話し合ったほうが、より過激な結論を導きやすく、危険性の高いものになりやすい》というものであった。
 は大学時代から、自らを“孤高の精神の持ち主”と称し、大多数のものに迎合したり、意味もなく人と集うことを避けてきた。
 ある者はをクールだと呼び、ある者は捻くれた奴と呼んだ。
 何れにせよ、この性格が今ののプロフェッションを形成している。
 キャリアとは呼ばない、プロフェッションである。
 あと数日で見える筈の次のステップ。書類選考の結果を待たずとも、そのスケッチがの頭の中に既に描かれ始めていた。

(26)〜網の目〜


 翌日は朝からけだるい雨が降っていた。梅雨明け宣言は、いったい何時出されるのだろう。
 ザーと一気に降って、さっぱりあがるわけでもない。
 そうかと言って、継続的に降り続けるわけでもない。P7021357-1.jpg 強弱の無い、実に締まりの無い雨である。
 幸いぐずついた雨も夕方には止み、は傘を持たずに、手ぶらで外出できることになった。
 午後8時過ぎ、場所は神戸のフラワーロード。
 が、がっしりした男性の肩を、背後からポンッと叩いた。
「オッス!」
 男は敏感に反応した。
 振り向き際、鋭い目がの身体全体をまんべんなくチェックしているように見えた。
「十勝川だろう? そんな怖い眼で見るなよ」
「―オウ、か!」
「久しぶりだな。かれこれ10年以上になるな」
 男は大学時代の同窓生で、応援団の団長をやっていた十勝川剛(とかちがわたけし)である。
「お互い、新歓の飲み会ではよく騒いだな」
「おまえらにもかなり無茶したよな、そういえば」
 が所属していた英語クラブと十勝川の応援団は、新歓コンパとOB会だけは、同じ日の同じ居酒屋で、隣座敷で開くのが恒例になっていた。英語クラブに入った新入生は、100パーセント応援団から一気飲みさせられ、洗面所でゲロを吐いて一人前という、変な慣習が定着していた。
「そう言えば、、おまえだけだったな。『無理して飲んで何がうまい!』って応援団に楯突いたのは」
「元々無理強いが嫌いだったからな」
「あの時のの眼はすごかったぜ」
 十勝川がちらっと腕時計を見た。
「すまん、。ちょっと急いでるんだ」
「え? オマエ、今どんな仕事しているんだ?」
「野暮な仕事さ。制服組みだ」
「公務員か?」
 十勝川はニンマリして、名刺を差し出した。
「オイ、コピーして皆にばら撒くなよ」
 威圧感のある縦書きの文字が、の眼に飛び込んできた。
―兵庫県警捜査一課長 十勝川剛―
「へえ、すごいじゃないか」
、今日は時間が無いから、また一緒に飲もうぜ」
「自宅の番号は?」
 十勝川が携帯の電話番号を、名刺の裏面に走り書きした。
「絶対に電話してこいよ!」
「了解!」
 足早に走り去る十勝川の背中を見送りながら、は携帯のリダイヤルボタンを押した。
 通行人の目が一斉に、通り過ぎる救急車を追った。
 前方の交差点を右折したところで、電話が繋がった。
「オウ、予定通りだ」
「(……)」
「わかった。無理するなよ」
 電話の相手に、どすの利いた声で応答した。

 繁華街のネオンが眩しく光っている。
 学生のころ眼にしたネオンは、を別世界へと誘う不思議なパワーを放っていた。
 今眼にする光は、を喪失させるどころか、逆に大きなエネルギー源となって、身体に注入されていく。
 もう戻れない、エネルギーを使い切るまで。
 使命がいを支えている。

(27)〜証人〜


 の足は、自然と繁華街の元町に向いていた。身体がまるで、学生時代の酒乱を引きずっているかのようであった。
 よく泥酔いして立て看板をひっくり返したり、電信柱によじ登ったり、はたまたホームレスの男性と一夜を明かしたり…色んなことをした。
 そういえば、こんなこともあった。
ある日、友人とナンパ計画を建て、夜中の2時過ぎ頃、仕事があけた水売のお姉さん達に声を掛けた。「あんたたち、本気なの?」と訊かれ、「本気でないと声は掛けませんよ」と返事したところ、整った目鼻立ちの女性が、ハンドバックから携帯電話を取り出し、目の前でワンプッシュ・ダイアルした。
「男の子が二人、ナンパしてくるの。来る?」
 女友達を呼んでいるとばかり思っていたと友人は、彼女達の目の前で煙草を吹かし、大人ぶって見せたが、10分ほどして“恐いお兄さん達”が4、5人現れ、「なんじゃオマエラ!」と一喝され、そそくさと逃げたことがあった。
―本当、よく馬鹿なことをしたな―
 色んな思い出が詰まった元町通り。は謝罪の気持ちと同時に、良き青春時代を懐かしんだ。
―それが今では、“恐いお兄さん達”から…―
 肩で風切る風体でもないが、今のを見るものは、相手を黙らせるオーラを放っていた。

 大手店舗のD百貨店が左前方に見えた時、聞き覚えのある女性の声が右後方から近づいてきた。
「先生!先生!」
 最上元杏子が、ポンッとの肩を叩いた。
 かなり後方で、娘の麻希子が様子を窺っている。
ちょこっと頭を下げたかと思うと、いきなり駆け寄り、「ねえ、先生。どこか連れて行って!」との左腕にしがみついた。
 杏子は首にスカーフを巻いて、おめかししている。
「今日は麻希ちゃんと、お買い物ですか?」
「ええ。先生は?」
「ちょっと大学時代の友人と―」
 杏子は、に思いっきり身体を摺り寄せている娘をいぶかり、の返事を遮った。
「これこれ、麻希子!先生に失礼でしょ!」
 は返事のしようがなかった。
「ねえ、お母さん。先生とお茶していいでしょ」
「無茶言ったら駄目、麻希子」
「先生に家まで送ってもらうから」
 杏子は勢いで負けていた。
 麻希子がの顔を見て、返事を待っている。
「お母さん、大丈夫です。ちゃんとご自宅まで麻希ちゃんを送り届けます」と杏子に言ったあと、麻希子にかぶりを振り、「一時間ばかりだけどいい?」と優しく訊ねた。
 麻希子は満面の笑みを浮べて、首を盾に振った。
 杏子は、苛立つどころか、久しぶりの自由時間を満喫するかのように、ひとり神戸の町に消えていった。

 夜の神戸には、時折、妖艶さが漂う。―と言っても、と麻希子の二人連れを、父子と見る向きはあっても、カップルと見る者はいないだろうと、もいささか高を括っていた。luminarie_018_s2.jpg 洒落た喫茶店を捜すのに、5分と掛からなかった。
 ルミナリエの様な喫茶店に入り、一番奥の席に座った。
「先生、煙草吸うでしょ。ここ禁煙席よ」
「大丈夫」
「無理しなくていいのに」
 麻希子はお気に入りの宇治金時を注文した。はカプチーノ。
 が用足しに立った。
 デート気分でいる麻希子から4、5メートル離れたところから、女子大生らしき4人組みのひそひそ話しが聞こえてきた。
「ねえ、今さっきの男、クールね」
「ホント。私、何だかメロメロっていっちゃいそう」
「もう、しっかりしなさいよ」
「今の若い男はダメよ。優しいけど、女に迎合してばっか。芯がないもの。でもあの男の人、中年だけど、何かを持ってるって感じ」
「でも、あそこにいる女の子は娘じゃない」
「私、子持ちでもいいわ」
「何言ってんの。結婚してるってことよ」
 永遠と続きそうな戯言に居た堪れなくなった麻希子は、ウェイターを呼んだ。
「すみません!主人のカプチーノまだかしら!」
 店内全体に響き渡るほどの大声だった。
 暫らくして、が席に戻った。
「麻希ちゃん、何かウェイターと喋ってなかった?」
「別に」
 大きな宇治金時とカプチーノが二人のテーブルに運ばれた。
 麻希子が嬉しそうに、頬張った。
 先ほどの4人組がに視線を送っている。
「先生。私たち、夫婦に見えないかしら」
 はドキッとした。
「え? どうして?」
「―うん。いいの」
 店内にピアノのメロディーが流れ始めた。
「バイクのことだけど…先生、絶対連れて行ってね。私、楽しみにしているの」
「いいよ」
「どこにしようかな? 海がいいな」
 は黙って聞いていた。
「ねえ。先生の本職は何?」
「本職って?」
「家庭教師だけでは食べていけないでしょ」
「まあ、色んな雑用やってるから、食べるだけは大丈夫だけど」
 麻希子は一度深呼吸して、決心したように訊いた。
「大分前、梅田で先生を見たの。飛び降り未遂事件があった日だったと思うけど。恐そうなおじさんの背中をポンッと叩いた後、中津の方角に走り去るのを」
「―麻希ちゃん、人違いじゃない。梅田って、いつの話?」
「6月25日の日曜日だったと思う。私の誕生日だったからよく憶えてるの」
「どうかな。その頃、梅田に行った記憶もないし」
 麻希子は食べるペースを落としながら、の顔を窺った。
 暫らくして、頬に笑窪をつくり、にウィンクしてみせた。
「まあ、人違いってこともあるか? まあ、先生とデートなんて最高!」
 はズボンの左ポケットから携帯を取り出し、テーブルの下で、瞬時に受信メールをチェックした。
―”.....decapitated like carcasses....”.―(動物の死体のように首が刎ねられている)
 の動揺が、瞬時に形を変えた。

(28)〜鼓動〜


「麻希ちゃん、ごめん。おなかの調子がちょっと…」
 は再度、男子トイレに行った。
 独りになった麻希子は幾分手持ち無沙汰だったが、髪を束ねてみたり、足を組んだり、きつめのアイシャドーをつけたりと、思いつく限りの大人を演出し、が席に戻るのを待った。
 トイレに入ったは、神妙な顔で電話をした。
「―おう、俺だ。ひどいな、これは。NGOの鯖石川正人(さばいしがわまさと)だろう?」
 は洗面の鏡に映った自分の顔を見ながら、会話を続けた。
「―で、十勝川は本格的な捜査を始めたんだな?…あー、あー、うん。鑑取りは?…なるほど。地取りは?…そうか」
 被害者の人間関係から動機などの線を洗うのが鑑取りで、目撃情報を中心に聞き回るのが地取りである。は本庁の捜査員と所轄の捜査員の名前を確認した。
「十勝川に弱みはあったか?」
 携帯を左耳から右耳に宛がった。
「うん…うん…あー、あの不祥事がどうした。…それで?…え?!奴だったのか。間違いないな?」
 オールバックに整髪するように、頭髪を手櫛でおもいっきりすいた。
 その不祥事とは、約半年前、神戸市の高校生らを殴り負傷させたとして、作業員の少年(19)が傷害容疑で逮捕され、家裁送致されたことがあったが、兵庫家裁神戸支部は「非行事実なし」と判断し、刑事事件の無罪に当たる不処分の決定を下し、冤罪が明るみになった事件のことである。
 少年は被害者や現場に駆けつけた警察官の証言で加害者とされたが、少年審判で、少年が事件当時別の場所にいたことが判明した。アリバイも確認しない雑な捜査が目立った不祥事であった。
 はダミーで便器のフラッシュを2回流し、麻希子の元に戻った。
「先生、大丈夫?」
「ごめん。昨日、飲みすぎたかな?」
 はお腹をさすってみせた。
「今、一人暮らしなんでしょ? 無理しないでね」
 少し頬を膨らませる麻希子がとても可愛く見えた。
 宇治金時にご満悦の麻希子。その彼女の微笑が、を不思議な気持ちにした。
―守ってあげなきゃ、麻希ちゃんを―
 はジレンマに陥った。
 暫らくしてカップに残ったカプチーノをすすり、首を左右に軽く振った。
「先生。どうしたの?」
「何でもないよ」

 二人はJRの元町駅から、家路へと向かった。
「お母さんの方が帰るのが遅いかもしれないね」
「ほんと。母さんたら、一度買い物に夢中になると、時間なんてお構いなし。私まで、うつっちゃったわ、悪い癖」skyline.jpg 麻希子がの肩にそっと凭れ掛かった。
 電車の揺れが、眠気を誘う。
「このまま電車が停まらなかったらいいのに」
 麻希子が独り言のように呟いた。
「何か言った?」
 夢心地になる麻希子を右肩で支えながら、はこれから迎える正念場に思いをはせた。

(つづく)

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  1. 2007/08/15(水) 08:18:03|
  2. 「ハグル」(総集編)

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