兵庫県芦屋市のマンション。 阪急神戸線芦屋川駅から、南に向かって徒歩10分のところである。
午後10時を回り、静けさが尚一層、高級住宅街を引き立たせる。
犬の遠吠えが、空襲警報のように辺りにこだました。
非常階段に男の足音が響く。
コツ、コツ、コツ、コツ。
5階に到着したあと、一番手前の504号室で足音が止まった。
ドア右手に掲げられた表札。
―利根岡奈美好、麻希子―
玄関の呼び鈴が2回、焦り気味に押された。
「はーい!」
室内から麻希子の声。
「あなた?」
チェーンが外され、ドアが開いた。
「早かったのね。寒かっ―」
といったところで、麻希子は思いっきり口を塞がれた。
すぐさまドアがロックされ、奥の応接室へと押し込まれる。
眼を剥きながら男を見る。
言葉にならない驚愕が、彼女の口の中で暴れまわった。
「騒ぐんじゃないぞ、いいな!」
数秒して、麻希子が首を縦に振った。
麻希子の口元がゆっくりと解放された。
「た、征。征でしょ!? テレビで見たわ」
15年の月日が、お互いに齢を感じさせている。
「ごめん、驚かせちゃって」
商は麻希子を抱き寄せ、力ずくで唇を奪った。
温かい空気が商の身体に染み渡る。
強張った麻希子の身体が、いつの間に解きほぐされていく。そして―。
「ごめんなさい。私―」
「いいよ。植物人間になったんだからな」
麻希子が黙った。
「もうすぐ、主人が帰ってくるわ」
商が首を横に振った。
「帰ってこないよ。一生…」
「え? どういうこと?」
「殺した。そう、ご主人を殺したんだよ」
「え!? ど、どうして?」
麻希子の眼が恐怖となって、商に跳ね返ってきた。
商は立ち上がり、テラスの外を眺めた。
「君を奪ったからさ」
「それだけなの?」
「それだけ、って。僕が一番奪われたくなかったものだ、君は」
麻希子が商の一挙手一投足に眼を遣る。
恐ろしいぐらい二人に一体感が生まれる。
「麻希ちゃん。実は利根岡奈美好は、僕の中学の時の同級生だった。知り合った当初はお互い仲良く、一緒によく勉強していた。彼は頭が良く、いつもクラスで1番だった。ところがある日を境に、利根岡は僕と勉強するのを避け始めた。僕は正直、彼には足手まといだと思っていたので、あまり気にしなかったけど、その年の2学期の期末試験で、全科目彼を抜いてクラスで1番になってしまった。利根岡の悔しさは、尋常ではなかった。それから1週間が経ったあたりから、無言電話が何度もかかってくるようになった。夜の9時あたりから、真夜中の3時ぐらいまで、何十回、何百回と。病弱な母は気が滅入り、心配になった父は警察にも相談したが、無言電話が止まることはなかった。仕方なく電話番号を変えた翌日、利根岡が僕の所にやってきてこう言った。“電話番号を教えてくれる?”―僕はピンッと来た」
黙って聞いていた麻希子が大きく首を振った。
「まさか、主人が―」
「麻希ちゃん、それからひと月後に、母が亡くなった。…そして、彼の結婚相手が君だったとは」
「…征。でも殺さなくても…」
「バカだろう、僕は」
「……」
「君を奪われたことは、命をとられたのも同然だ。もう覚悟はできている」
「征…」
「大丈夫」
「商社マンとして、インテリジェンサーとして生きたあなた。そして日本国総理となってトップにまで上りつめたあなた。そんなあなたが、たった一人の私の為に全てを捨てる。どうして?」
「麻希子…」
「何?」
「いまでも君を愛しているからだ」
「でも罪を犯してまで?」
商が大きく深呼吸した。
「愛にハグルは無い」
「ハグルって?」
「愛に値切り交渉はないよ」
「それって…」
「お金では買えないものに交渉はない」
「征」
再び犬の遠吠えが聞こえた時、麻希子のマンションから、二人の姿は消えていた。

数日後、日本海に浮かぶ一艘のボート。
商と麻希子が手と手を取り合い、天空を見上げている。
静かに息を引き取った二人の表情には、微かな笑みが浮かんでいる。
花武庫待子からの手紙がふわふわとボートから飛び出した。
海水で滲んだ文字が薄っすらと消えていく。
―商征さんへ
麻希子さんは生きている。今でもあなたを愛している。
あなたはそれ以上に、麻希子さんを愛している。
だからこれからも、愛してあげて。
連絡先:****
待子
追伸:愛に生きた征。ありがとう!
(終わり)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/28(水) 18:16:49|
- 「ハグル」(連載)
-
-
グリーンピースの入った炒り卵を少し口に入れ、味噌汁で流し込む。食欲が消え去っていくのが商にも分かった。 配膳のトレーを返却したあと、商は病院の屋上に上がった。
地上12階。目の前に阪急梅田駅が見える。
右ポケットには待子からの手紙が入っている。
屋上のボイラーい夕陽が差し始め、商の顔にエキゾチックなコントラストを描いた。
暫くして警備員が見回りにきた。
「風邪ひきますよ」
「すぐ降ります。夕陽がきれいなもので」
「じゃ、あと30分ほどでドアを閉めにきますから」
商は静かに頷いた。
6時30分、ジャスト。看護婦が商の病棟にやってきた。
「あれ!? 商さんが―」
ベッドはもぬけの空で、不審に思った看護婦は緊急連絡を入れ、棟内全体を探し回った。
そして、その30分後。
「婦長、見当たりません」
「まさか、あの人―」
屋上で警備員が見たのを最後に商は消えた。
そして病院の旧館と新館の間の東屋に.....。
◆
その翌日、大手家電メーカーのM電気の守衛室に商の姿があった。
「商征ですが、総合研究所勤務の利根岡奈美好さんをお願いします」
守衛は何の疑いもなく、利根岡に取り次いだ。
「上級研究員の利根岡さんですか? 商さんていう方がお越しですけど」
「え? ここに? 本当? 懐かしいなー」
伝言を受け取った利根岡は、躊躇うことなく休憩室まで珍客を案内するよう、電話越しに応答した。
研究発表のレポートを書いていた右手が、いつの間にか震えている。驚きか、嬉しさか、緊張感なのか、説明のつかない電気が身体中に流れるのを感じた。
地元大阪の国立大学でマスターを取得した後、伊丹市にある大手家電メーカーのM電気に入社。利根岡が所属する総合研究所は、マスターやドクターの学位を既得するエリート集団で、毎日コツコツと研究に励む一種独特の世界である。さして仕事に違和感は感じていなかったが、ここ数ヶ月ひきこもり状態になっている自分に、少し嫌気が差していた。
自分専用のコンピューターの電源を落とし、同じ建物の2階にある来客専用の休憩室に向かった。普通の足取りならば5分で着ける場所であるが、懐かしさがそうさせるのか、利根岡の歩調は勢いを増していた。
いつもなら居残りの社員が吸う煙草で煙だらけの休憩室だが、この日は社員早帰りの水曜日とあって、午後9時を回った工場は、驚くばかりに静まり返っている。 横一列に5つ並んだ自販機の上の蛍光灯だけがポツンと点っているだけで、守衛の姿はまだ見えなかった。
―あいつ、トイレにでも寄っているのかな?―
利根岡は温かみの無いスチールの長いすに腰掛けた。
5分経った。…人の気配が無い。
10分が経った。…背筋に寒気を感じる。
暫らくして、鉄製のバールが鋭く地面に落ちる音が聞こえた。一階の玄関あたりである。
「誰か、そこに―」と言いかけて、利根岡は勇み足で金属音が聞こえた玄関に向かった。
自分の足音だけが、コツコツと廊下に響く。
眼の前に正面玄関が見えた。守衛の姿が無い。そして来客の姿も。
受付にみたてたスチール製の机に、恐る恐る、一歩一歩近づく。
守衛がいつも座っている椅子の背後に、赤いものが。
大きな血痕。一つ、二つ、そして―。
背後で人影を感じたその瞬間…利根岡は鈍い大きな音と共に、廊下に倒れた。頭脳に集積された画像が全てシャットダウンするように、眼前から全てが消え去った。
全て…。
商の残像を最後に利根岡は息を引き取った。
殺害された利根岡は、不思議なぐらいに平穏な顔で50歳の生涯を終えた。
傍らに置かれた一枚の写真。
卒業アルバムを引きちぎった一片であった。
―K中学校2年8組クラス写真
正面左手、最前列。商と利根岡が満面の笑みを浮かべて隣同士座っている。
利根岡の顔に書かれた赤の×印。嫌悪感を象徴するかのように、顔が擦り切れるぐらい、何十にも擦られていた。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/27(火) 19:34:59|
- 「ハグル」(連載)
-
-
昏睡状態から目覚めた日の翌日、商はプロムナードと呼ばれる病院内の散策路に出ることを許可された。 太陽が眩しく照りつける昼下がり、商の車椅子を押す待子が、木陰に入ったところで呟いた。
「ねえ」
待子の問いかけを無視し、商が訊いた。
「俺たち結婚していたのか?」
待子が俯いた。
「どうなんだ」
車椅子を東屋のベンチに誘導し、木製の椅子に腰掛ける待子。
大きく深呼吸し、言葉を選んだ。
「別の人と」
一拍おいて、商が応えた。
「そうか」
老夫婦が黙って二人にお辞儀をし、眼の前を通り過ぎて行く。
「ごめんね」
「……」
商が左右の車輪を思いっきり握り、前方へ走らした。
「待って!」
「昏睡状態の男に、15年も添い遂げる女なんてこの世にはいないよな」
「―そうじゃないの」
商が車椅子を停めた。
「あなたには奥さんがいたの。それもとっても若い」
「君じゃないのか?」
記憶がはっきりしない商が、焦点の定まらない眼をした。
「麻希子さん。憶えてる?」
「麻希子…麻希子…」と何度も口ずさむうちに、商が頭を抱え込んだ。
「やめましょ」
商は頭を掻きながら、「独りじゃなかったんだ」と神経質な口調で応答した。
先程の老夫婦が、5メートルほど先のベンチに腰を降ろし、水筒に入れ
たお茶を飲み始めた。そのゆっくりとした仕草は、商には一縷の安らぎとなった。
「あんな夫婦になれたらいいわね」
「ああ」
大空を見上げ、商がポツンと訊いた。
「その麻希子って子、今はどうしてるの?」
待子が大きく商から眼を逸らした。
慮るように商が優しい眼で待子を見る。が、その表情を見て待子は余計に言い出しづらくなった。
「大丈夫だ。正直に言って欲しい」
「…別の人と結婚しちゃった」
「そうか。じゃあ、俺は独りっていうわけだ」
予期せぬ突風が東屋に吹きつけ、商と待子は眼を閉じた。
待子が腰を上げた。
「もうそろそろ行かなくっちゃ」
「ごめん。大丈夫だよ、あとは独りで病棟に戻れるから」
「これ、読んでおいて」
待子が一通の封筒を渡した。
表には達筆な字で“商さんへ”と記されている。
「今は開けないでね。辛くなるから」
「了解」
待子の背中を見送りながら、ゆっくりと記憶を辿る商。
永久の別れのように聞こえた待子の挨拶が、商の心臓を抉り始めた。
病棟に戻った商は、待子からの封筒を手にしたまま眠り込んでいた。
夕食の配膳に眼が覚め、徐に封筒を開ける。
1葉の便箋と箇条書きが、待子の全てを語っていた。
数行のメッセージを読み、すぐさま天井を見上げる商。
同封された1枚の写真が涙腺を緩ませ、過去の記憶を蘇らせた。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/27(火) 07:21:28|
- 「ハグル」(連載)
-
-
今朝、朝ご飯を食べたあと看守に呼ばれ、「明日だ」と言われた。 この日がやってくるのは分かっていたが、正直、食べた物が消化不良になるような気分になった。
死刑囚監房に入って早15年弱。自暴自棄になったこともあれば、宗教心に目覚めたこともあった。毎朝、牧師が来て聖書の一節を呼んでくれる。最初は全く頭に入らなかったが、週を重ねる毎に、牧師のみならず聖書の中身にも耳を傾けられるようになった。その頃から日記を書き始めるようになったが、決して続くまいと思ったことが、今の今まで続いている。気に入った言葉などを書きとめ、牧師が帰ってから、何度も読み返したこともあった。今朝も牧師が来て、説教を垂れた。殆ど日常化していた。
それでも俺の心の空虚さは、何を持ってしても埋められなかった。
何故だ?
俺が素直でないからか?
それとも牧師の話が、神学校で学んだことを吐き出すだけの所業に終わっているからか?
かもしれない。
ただ俺が片時も忘れなかったのは、奴だ。
商征。
お互い生きていくために、やるべきことをやった。俺は国家の野望の片棒を担がされ、アフリカでの大量殺戮を扇動するという、忌々しいミッションを遂行。商は諜報員としてインテリジェンサーのトップに登りつめ、俺の逮捕に漕ぎ着ける。そして商自身の正義感が、奴を日本国総理大臣へと導き、戦争のないパシフィズムを世界に浸透させようとした。
商はあれから昏睡状態に陥った。
15年という歳月、奴は眠りつづけた。
そして今朝、看守から朝刊を渡された。
―革命内閣の元総理商征、奇跡の生還!
やはり俺の眼に狂いはなかった。
奴は不死身だ。
また何かをやらかすだろう。
明日、俺は地獄への切符を渡される。
奴は恐らく、今からまだ何十年も生きて、あの世に来る時は天国への切符を貰うだろうから、もう会わないかもしれない。
商の女房は気の毒だった。男として、一番辛いことだ。
可愛そうに。
今日の日記には名前は書かずにおく。
俺という存在が、明日、消え去るのだから。
お父さん、お母さん、ありがとう。
こんな息子で悪かった。
そして、商征。
どうか世界に平和を作ってくれ。
笑うなよ。俺の本音だ。
アーメン。
私の罪を許してください。
アーメン。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/22(木) 17:12:04|
- 「ハグル」(連載)
-
-
「せ、せ、先生!」 待子の声が病棟の1室で激しくこだました。
ベッドに備え付けられた緊急用ボタンのことも忘れ、ナース控え室に駆けて行った。
「あ、あ、あのー」
「どうしたんですか?」
「た、た、た…」
しどろもどろの待子を落ち着かせるように、
看護婦の一人がそっと待子の肩に手を遣った。
「落ち着いて話して下さい」
「た、た、征が、眼を覚ましたんです!」
「え!? 商さんが?」
「たった今、目の前で―」
それ以上言葉にならなかった。
待子と
看護婦2名は勇み足で、商の病室に戻り、ベッドに詰め寄った。
「商さん! 聞こえる?」
看護婦の一人が商の耳元で叫んだ。
「征! ねえ、征!」
いつの間にか涙声になっている待子。神様がいるなら助けて欲しい―そんな思いでもう一度叫んだ。
「征! お願い!」
商の身体がゆっくりと動き、薄っすらと瞼を開けた。
唇が語りかけるように微妙に動作する。
担当医が緊急連絡を受け、飛んできた。
「
先生、征が―」
「奇跡だよ、本当!」
マレーシアでの麻希子救出作戦から15年間、商は昏睡状態にあった。
敵方の手榴弾が商を直撃、意識不明のまま15年という歳月が過ぎた。商は51歳、そして待子は40歳になった。
商の瞳がはっきりと待子を捉えた。
「君は?」
「待子よ。忘れたの?」
「待子、待子…」と言いかけて咳き込んだ。
乾燥した喉元からス―スーした掠れ声が漏れる。
「友達?」
「…友達だけど友達じゃない!」
二律相反する感情が待子の心の中で交錯した。
梅があちこちで開花し始めた3月12日、月曜日の正午過ぎ。
時折、商の病室の窓にも空っ風がぶち当たる。
「征のバカ! バカ、バカ、バカー!」
商が少し首を捻った。
「メールの?」
「え? 何て言ったの?」
「あー、あのひどいメールの―」
「ひどいってどういう意味よ!」
生前の十勝川と神戸の三宮の喫茶店にいたとき、待子から送られてきたメールのことを商は覚えていた。
「待子さんか!」
生気を与えられたように、商の声に張りが戻った。
担当医が満面の笑みで言った。
「商さん。あなたは本当、強運の持ち主だ。15年間、一時も眼を覚まさずに今まで。…そして」といいかけて待子が制した。
「
先生。それ以上は」
商が水を催促した。
チューブを通して水滴が鼻から流れこむ。
待子の顔をじっと見つづける商。胸の中のわだかまりを、敢えて言葉にしなかった。
「
先生。私が話します」
「分かりました。じゃあ、二人にしてあげよう」

担当医が
看護婦二人に目配せをし、病室を出た。
リクライニングのベッドがゆっくりと商の上半身を持ち上げる。
青一色の空に、飛行機雲が一本スケッチを描き始めた。
「きれいだね」
「本当。きれいね」
青白い商の頬に血色を与えようと日光が差した。
待子にかぶりを振った商が、微笑みながらいった。
「ありがとう、側にいてくれて」
待子が小さくうな垂れた。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/13(火) 07:57:18|
- 「ハグル」(連載)
-
-
6時間半後。 ジョホルバールの上空から8つの落下傘が開いた。
最初に飛び降りた商が目標の落下地点へと誘う。
夕闇が西の空から襲い掛かる。
耳を劈く風の音、ゴーグルの視界を遮る水滴。瞬く間に商の思考が吹っ飛んだ。

ヒュ―、ヒュ―。
電光石火の稲妻が、右手前方で暗闇を切る。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
そして次の瞬間、
バリ、バリ、バリ、バリ…。ドス―ン!
海面を襲った落雷に、隊員全員が度肝を抜かれた。
気を取り直し、着地するまでの数分間、商は冷静に分析した。
(…奴の腹は…)
「ジーッ。ジーッ。
Precursor, 214V and 314W!」
胸ポケットのCBの赤ランプが点滅し、ドンラト―バからの連絡を告げる。
2名の
諜報員が先に着地、安全を確認する。
眼下にジョホルバールの工場地帯が迫ってくる。
(…花武庫待子、最上元麻希子、長万部、十勝川、影権、道街…)
時系列で見る人の繋がり。
(…奴はいつでオレと麻希子を殺せた筈だ。何故、今なんだ…)
ネットカフェのマスター、閑散寂の忠告を思い出す。
―誰も信用してはいけません。…誰もです―
着地まであと500メートルと迫った時、陸地から閃光弾が一発夜空に舞う。
商が落下傘部隊全員に活を入れた。
「
Carry out your assignment! 頼むぞ!」
すかさず隊員から返事が返ってきた。
「10−4。了解!」
シンガポールの街並みが、眼下から消えていく。
商が着地した地点は、工場地帯から数百メートル離れた土手であった。
次々と後方部隊の公安特殊工作員が降り立つ。落下傘を素早く畳んだ後、商の指示で2列縦隊の部隊が、駆け足で目標の工場地帯に向かう。
ザクザク、ザクザク。
装備品を上下に揺らしながら、商が心の中で叫んだ。
(…麻希子、待ってろ! 死んでも助けてやる!…)
目の前に家電メーカーS社のジョホルバール工場が見える。
すぐさま黒覆面を被る商。
麻希子の居場所を赤外線センサーで確認する隊員たち。
表面実装工程の基板のはんだ付け機械が設置してある部屋に、拉致されていることが判明。
隊員全員に連絡が入る。
緊迫した空気が流れる。
「
Show time, you guys! いくぞ!」
商が親指を立てた。
「
Freeze! Go, go, go, go!」
手榴弾の爆発音が4ヶ所で轟いた。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/09(金) 08:35:42|
- 「ハグル」(連載)
-
-
翌日、正午前。「道街さん、3日間なら何とかなるか?」
総理官邸で商が訊いた。
「総理、療養ということでメディアの方には伝えておきます。閣僚の方は、全く心配要りません。文句を言う奴は即刻首にします」
新ポストの国防大臣に就任した道街が、キリッとした眼で商に答えた。
「すまない」
「とんでもないです」
「奴だ」
「―ですね。裏は取れました。ドンラト―バのバックアップは、公安の特殊工作員がやります」
「絶対に前面に出ないように言ってるね? 狙撃手を公安から遣したとなれば、
政府のダブルクロスだと嵌められるだけだから」
「大丈夫です。全て精鋭の特殊部隊です」
「そういう問題じゃ―」
「分かってます」
それでも商は不安に感じた。
麻希子の救出にはどんなミスも許したくない。
官邸の窓に強い日差しが入り始める。
道街のCBに連絡が入った。
「了解。…総理、時間です」
リムジンとRV車が官邸の前に停まった。
リムジンに乗り込んだ商は、同乗するドンラト―バの
諜報員3名に一礼したあと、厳しい口調でこう言った。
「
Don’t let me down, OK? しっかりやってくれよ」
特殊工作員が乗ったRV車がリムジンに続く。
何十分走っただろうか。前夜、一睡も出来なかった商が、「タッド!」の声に目が覚めた。
羽田の駐機場が眼の前に飛び込んでくる。
大型の輸送機がスタンドバイしている。
リムジンとRV車が躊躇無く乗り込む。
澄み切った空を突き破るように、ジェットエンジンが回転を増す。
リムジンに連絡が入った。
「FL in JM, got that? Para urgently!」
ドンラト―バの
諜報員が、厳しい眼差しで商に合図を送った。
FLはファーストレディー、商の妻麻希子。JMはマレーシアのジョホルバール、Paraはパラシュート。即ち、麻希子はマレーシアのジョホルバールに拉致されており、即刻、落下傘部隊で救出要との連絡である。
ミスが許されない一発の勝負。
「
Tad, don’t worry. We’ll all risk our lives.」
現地の
諜報員から力強い言葉が帰ってきた。
歯を思いっきり食いしばる商。
金切り音とともに商一行が乗った輸送機が、西の空に消えていった。
(つづく)
テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学
- 2007/03/07(水) 23:40:59|
- 「ハグル」(連載)
-
-